モーパッサン公会議2
もはや、マリーの肉体を味わうどころではなくなっている。予想はしていたが、どうやらポーラは貧乏くじを引かされつつあるのではないか。状況を鑑みればそうするほどに悲観したくもなる。それは彼女の自己イメージからかなりかけ離れる。どちらかといえばマリーの職分のはずだ。
エイラート奪還軍を主導できるならば、それはむしろ重畳ということができるだろう。ただし、それも全軍に共通了解があってのことである。期待できないのは目に見えて明らかなようだ。ハイドリヒ伯の報告を待つまでもなく何処の領域にあっても多くが楽観的だ。主のお助けがあるからと、彼らや彼女らはのちすでに凱旋が決定済みの将軍の心づもりなのだ。
これまで主に祈って戦いに勝ったことがあったか。もっと言えば苦境から奇蹟的に助かったことがあるのか?ある伯爵にそういう質問をぶつけたところ、次のような返事があった。
「閣下、これまでは共に主を仰ぐ同士で干戈を交えてきたのです。恐れながら主としてもどちらに軍配を上げていいのか大変に迷われることでしょう。しかし今回は相手は人間ではないのです」
なかなかの論理構成ではある。しかしながら単なる言葉遊びにすぎないのではないか。すでにルバイヤートに対する前提というか、常識はすでに崩れつつあるのだ。ちなみに、その伯爵は事実について何も知らなかった。しかしながらこれから戦う相手について全く無知であることを自覚すらしない。そんな連中を率いて杖をふるいに世界の外へと赴かねばならないのか。
ナント王やハイドリヒ伯爵は例外なのだ。おぞらくは無知蒙昧な連中が何処でも支配権を主張しているに決まっている。それはわかってはいても、巫女の間に行かざるを得ない。
その中途でクートン枢機卿と出会ってしまったのだ。そのことは少女の不快感に拍車をかけることになった。おそらく彼は城主の行き先を洞察していたのだろう。これ見よがしに嫌味をぶつけてきた。
「閣下に主のお怒りがなきよう・・・」
このような態度に肩を切って無視する方法を少女は学んでいた。しかしながらそれが無意識のうちにできないようではまだまだだと、マリーなどは思う。が・・・姉上さまは、予想の通りにけっきょく無礼に対して無視できずにすれ違い際に言い放っていた。
「猊下、主におかれては教えの敵についての学びまでもお怒りになることはないものと愚考します。間違えならば迷える子羊として猊下の教えをいつでも学びに参る所存です。今夜は先用があるので失礼いたします、我が父よ…」
マリーは密にそっと胸をなでおろした。姉上さまが「神」と主を呼ぶ映像が脳裏にふと浮かんだからだ。どうやらそれは杞憂に終わったらしい。
ポーラの苛立ちは、自分の知らないところで勝手に自らの立場が固められつつあることにある。それは枢機卿による嫌味よりもはるかに対処先として重要なはずだった。
伯爵は巫女の口を使って予想通りの報告をしてきた。彼の周囲にポーラと共通か、それに近い認識を備えているのはクララ・フォン・ヒトラーぐらいのものだという。
枢機卿への不快感を引きずったままで、ポーラは伯爵に苦言を呈してしまった。
「あなたがいながら何を考えておられるのだ、もう一か月を切ったのだ」
しかしよく考えれば彼もよくやっている。ポーラにとってのナント王のような存在に対してコミュニケーションをちゃんと取っている。その点をこそ評価すべきだろう。
伯爵もモーパッサンに出張っているということだ。そうでなければこれほど明瞭にやりとりすることは、魔法源泉との距離という意味合いで難しいだろう。
「しかし天使さまが畏れ多くも出御なさっているというのに・・・・」
考えてみれば、それは特権身分の傲りということでしかない。ありえないことがおきれば、ルバイヤートへの共通了解は共有できずとも少なくとも世界はひとつになりえただろう、と安易に考えていたのだ。
自らへのいら立ちが原因とまでは若いポーラはまだ気づかない。ただ、ただ自分の肩が重くなってくるような気がする。これはただモンタニアール、ナント王憎しで戦争をやっていたときのことを思い出せば簡単にわかることだ。
ハイドリヒは、モーパッサンに、というか一か所に諸侯が集注しすぎることを懸念している。
「この地の魔法源泉はかなり強力です。こんなところに閣下や陛下のような方々が一挙に集まったら、こんなことは歴史上なかったことですが、どんなことが起こるのか想像すらできません、共鳴しあうのか、逆に反発しあうのか・・」
「すべては主の御心のままに・・・と言っておくしかない」
確かに新しい視点ではある。しかしながら今のポーラにそれについて思考を巡らせる余裕はなかった。
ハイドリヒは憮然とした顔で返事をする。
「閣下らしからぬ言いようですね」
天使さまのご意思通りに事が進んでいないことへのイライラも、もちろんポーラの中にはある。あるいはそのことに純粋な畏れの方が大きいだろう。それは同時代人と同様であり、彼女が際立ってそういう空気から自由だったわけではない。
というよりかは、天使さまにより愛されているという自意識が強かっただけに、彼女もやはり当時の人間だったのである。それは時代の常識をはるかに超えて活躍したというロベスビエール公爵ポーラ三世というイメージからはいささか外れるだろう。
当時の人間にとって天使とは現実に存在し、その営為のあらゆる場所に影響していた。
ポーラも圧倒的多数と変わらずに、いや、それ以上に疑義を一切挟まなかった。
エイラート奪還という命令は余りにも非常識だった。だから多くを困惑に追い込んだとしてもポーラもおかしいとはおもわない。
ハイドリヒ伯爵などは、自分と血のつながったこの少女をそのように見ることはできなかった。それは実母との関係を知らないからだろう。
だから彼女の口から「天使さま」という言葉が迸るとき、その真意を読み間違える。まさか心から心酔しているとは夢にも思わない。ハイドリヒ自体も多数派とそれほど距離があるわけでもない。ただし、できもしないことを無理やりに要求する背景には何かあるとみるのが当然である。まさま天使さまそのものに疑いはかけなくても、それによりそう高位聖職者たちはどうか。ミラノで何が起きているのだろう。ミラノ教皇や枢機卿たちはどのようなことを天使さま方の耳に囁いているのだろうか。
そのことを指摘すればよかったのだろう。
「本当にエイラートが実在するのか、まずもって疑問をお持ちになったのは閣下ではありませんか」
「いうな、ラインハルト…いや、ハイドリヒ伯爵、天使さまは絶対だ」
思わず子供の頃の呼び方を採用していた。
ポーラは自分の言った言葉に今までのような自信が保てないことに気づいていない。あるはただ説明不能なイライラだけだ。
それを振り切るようにハイドリヒに怒りをぶつける。
彼からすれば竜の逆鱗に触れたような気がした。思わず理由がわからないままに謝罪の言葉を述べていた。それが母国語であるドレスデン語だったので、どれほど自分が生命の危機を感じていたのか、それが推察できるというものだ。たしかに公爵は彼にとってそれに値する人間ではあるのだ。
ポーラとしては、自分が行き過ぎた反応をしてしまったことを後悔し始めていた。が、それは通信先に対して失礼があったというよりは、むしろ天使さまに迷惑がかかることを憂慮した結果にすぎない。
天使さまのためにも奪還軍はうまく機能しなくてはならない。
「とにかく皇帝陛下のご意向が知りたい。あなたの周囲の方々にもあなたの考えが伝わるように励んでもらいたいが、そうだな、すでにモーパッサンに出張っているような諸侯たちは理解している連中ばかりだ」
いつの間にか自問自答していた。しかしながら通信相手はいつものことだと軽く流してくれている。変なところで気を遣うものだ。
「閣下の仰る通りです。今の段階でそれが完遂できるような諸侯は先進性を備えています。しかし私の周囲でも一様にではありませんが、モーパッサンへの動きがないわけではありません。その結果、全軍がどのように動くのか、それは確かに問題ですが、それ以前に天使さまのご命令通りに戦いをはじめなければなりません」
「エイラート奪還を確実に実現しなければならない。そのためにも敵についてよく知らなければならないし、世界の外についても同様。・・・しかしながらいついつまでに奪還を完了するように、とは天使さまはご命じにならないのだな・・・これは不思議なことだ」
「確かにそうですね、天使さまに仰ぎますか?」
そんなことは礼を失するとポーラが反応することをハイドリヒは承知なのだ。それをわかったうえでこう切り返した。
「エイラート奪還という至上目的のためには、その程度の無礼は許容されるべきだろう」
「しかし天使さまですよ」
巫女を通して、ハイドリヒの微笑が送信されてきた。それは子供時代の彼だったので、ポーラは思わず眉をひそめた。
「ああ、天使さまに疑念を抱くなどとありえないことだ」
ハイドリヒと知的な会話を楽しむのはいいが、そんな余裕は自分にも彼にもない。要するに現実から逃避したいのだ。それはすぐに共通了解になるはずだった。それに気づく前に巫女の能力の限界を超えてしまった。期せずしてそれが通信を強制的に終わらせる原因となってしまった。
巫女は自らの至らなさを謝罪した。
「よい、重要なことはすでに共有できた」
ハイドリヒの瘴気はそれでもなお残存している。だからそれは気のせいにすぎないのだ。だがそれは彼自体を意識していたわけではなく、あくまでも彼が言ったことが気になってたまらないだけのことだ。このままだとずっと意識に残りそうなので無理に消さなければならなかった、無理矢理に話題を変えるのだ。
「マリー、まだドリアーヌは母上さまの元か」
ポーラの意識が飛んでいる証拠をマリーはすぐに認めたが、それを指摘することは逆効果だと見なした。太后さまと呼ぶところを母上さまとするなど、たとえマリーと一対一であってもめったに彼女の口から聴けないことだ。
「バブーフ男爵はよほど母上さまにとってお気に入りなのでしょうね」
ある種の叙述法によって妹は姉に真意を告げたつもりである。
それを意に介しているのか、そうではないのか、ポーラは強引にまだ話題を代えようとした。
「男爵には後から連絡することにしよう。国向きの仕事もあろうからな」
ポーラはマリーの華奢な臀部を見つめていた。ぱっと見では少年のそれに見えなくもない。イライラが募った結果が思いもしない方向に感情が動き始めていた。まさに情動というのだ。
最初にそれを覚った巫女は、主君に一瞥もくれずに部屋を退出した。普通の家臣ならば失礼にあたる。一般的な封建諸侯ならば生命を奪われたとしても文句は言えない。が、事実上、この城にいないことになっているこの少女にはそれが可能なのだ。それがわかったポーラは一言、おもわず漏らした。
「アンヌ、すまない・・・」
いつの間にかルイも、姿を消していた。
巫女とどちらが先だったのか、ポーラはそれを思い出そうとしつつマリーの背中に忍び寄った。
「姉上さま、このようなところで・・時代が時代なれば、とうてい許されないことですよ」
「神代であればな・・・・・」
天使さまは絶対などと言っている同じ口がこういう言い方をしている。ある種の欺瞞に本人が気づいていない。
しかしラケルは、マリーとの関係を知っていながら見て見ぬふりをするどころか、むしろ言葉遠くに使嗾することすらあった。
こうして密着すると余計に二人の背丈の違いが際立つ。姉と妹、というよりは母娘のようである。近しい存在ではない貴人にそのことを言葉遠くにさえ指摘されることは面白いことではない。だが、一対一で、個室ならば゛・・・それでもここは巫女が棲まう居室であり
古代においては聖なる場所なのだ。他者の視点を気にしないわけにはいかない。
しかし背徳的な空気がより興奮を生み出す。それを跳ね除けるようなことを言っていた。わざとそういうことを言うことによって自らの興奮をわざと増そうとする、いわばテクニックである。
「ど、ドリアーヌとの打ち合わせも・ありましょう」
「ルイはいつの間にかいなくなってしまったようだ」
長く肉体の付き合いをしてきただけにポーラも妹の気持ちを理解している。そのうえでの発言だ。
「こんなときに憎きモンタニアールの名前を出すなどと・・・姉上さまは私が嫌いになってしまったのですね・・」
「いい加減に、きれいな顔を見せてくれ、私のマリー」
強引に、もちろん魔法は使わずに純粋な腕の力だけで恋人を回転させる。
「ああ、私のマリーだ」
妹の目が開かれる前に彼女の口を自分の口で覆う。そしてそちらに祭壇があると知りながら無理矢理に押し倒す。そちらには魔法を使って恋人の身体が傷つかないように安全を図って石の床に着陸させる。とうぜん、石は温めてある。彼女の上得意は炎の魔法なのだ。
「ああ、温かい・・・まるでアラス城そのものが姉上さまのようです」
「私は城主だ。しかしそなたにしかこのような待遇は与えない」
「姉上さまは人を癒すお力があります」
「何を言うか、それはそなたの領分であろう。私ができるのは人や城を燃やすことだけだ、たしかにかすり傷くらいならば治せないわけではないが・・・」
「不器用だからです」
マリーの手が背中で組み合わさった。それは手枷や足枷ならぬ、腰枷とでもいうべきものだろうか。しかし少女が望んで自ら嵌ったのだ。
「マリーは容赦ないな・・・」
巫女の間には窓がない。だが、月の光は見える、というよりは身体全体に流れ込んでくる。後から考えればそれはべつの光源があったのかもしれない。あるいは自分たちを光が包み込んでいたのではなく、自分たちが光を発していたのかもしれない。
ナント王とこれから戦おうという前日を少女たちは何度も体験した。明日、世界の外に出征するわけではないが、あたかもそれが真実であるかのように思える。戦争においては生と死は隣りあわせであろう、ゆえにこういった夜を味わうのだ。
たった一夜でナント王が相手ならば足りたが、今回はいくつの夜が必要なのだろうか。毎夜というわけではないが、ポーラはマリーの寝所に忍び込んでいる。瘴気を隠していきなり登場したように突撃したことすらある。
暴漢が侵入したようにあえて演出したのだが、いとも簡単に見抜かれた。
「この私に、そんなことがお出来になる人は数えるほどしかありません、故に解答は明らかです・・母上さまがこのようなことをなさるわけがありませんから」
どうして母上さまのことが話題に上るのかと、ポーラは不満のあまり、その夜の睦み合いはあいにくとうまくいかなかった。
せめて「無礼もの!」とぐらいに驚かせたかったものを、マリーはあくまでも冷静さを失わなかった。
どうしてか、今宵はその時のことが思い出される。
後日から思い返せばナント王との戦いは児戯に思えてくる。文字通りの幼女だったころ、真夜中に起き出したことがある。マリーを無理やりに連れ出して夜の街にまで繰り出したことすらある。エイラート奪還軍に参加したこと体験からすれば、その時のワクワク感とそれほど変わらなかった、ということだ。あくまでも極論にすぎないといえば極論にすぎないのだが、老境に達したポーラからすれば過去はどうしても曖昧になっていたということかもしれない。
あまりにも重大なことがその日には多すぎた。それを処理するためにも、眠りが身体だけでなく心にとっても必要だったのだろう。その夜、マリーは欲求不満を抱えたまま朝を迎えることになった。
巫女が水の入った盥を持ってくるまで、ポーラはいつの間にか寝入ってしまったことに気づいていなかった。




