ブリュメールのミサ11
ポーラは言葉を完全に失ってしまったが、それを大人たちに晒すほど子供ではない。しかしラケルさまはそれを見透かしておられるようだ。
「ポーラ、そなたにはエイラート奪還軍の準備という使命がある。それに従事なさい。マリーはどうしますか?あなたについては、あなたの判断に任せます。後で、姉上さまにご報告してもいいのですよ」
マリーは天使さまには黙って頷くと、ポーラに顔を向ける。
「姉上さま、家臣には家臣の仕事があります、任せてもらわねば困ります」
アデライードはおかしかったが、何とか微笑をこらえた。
何となれば、娘が言っていることは矛盾しているからだ。ヤギの胴体に鷲の頭が付いているくらいにおかしい。姉上さまと呼ぶならば、妹、閣下と呼ぶならば家臣、表現は統一すべきだろう。冷静沈着なマリーが自覚せずにミスをやらかしていることがおかしいのだ。だが、逆に微笑ましくもある。
もしも誰かさんについてもこの微笑ましさがあれば少しは違った母娘関係が結べたのかもしれないが、それについては精神安定上の問題から考えないことにした。
ポーラは娘を追うべきか、否か、迷っていた。
マリーは全身でそうしろと、無言で、無瘴気で主張している。
それに従いたいのだが、ここはいくら彼女の頼みでも聞けない。
しかし都合のいいことに、そう言っては畏れ多いが天使さまがこちらに微笑みかけてくださっている。それに乗ることにした。
「もう、それはいいです、アデライード・・」
ラケルさまに名前を言っていただいたのは、本当に久しぶりのことだった。この前はポーラが生まれるより前だったかもしれない。天使さまの表情から意図をすぐに読み取ると、音も立てずに娘を追うことにした。しかしながらどんな顔をすべきなのか、まったくかんがえが浮かばない。むしろ追うという行為そのものに意味があるに決まっているのだ。その後、あの子の心の中でなにが起こるのか、それは彼女に一切が委ねられる。
ポーラは、ただ、ただ自失していたわけではない。夜の闇の向こうで、これから世紀の事件が起ころうとしている。それを平静な気持ちで見守ろうというか、傍観しようという彼女がいないわけではない。むしろ、ここまで精神的に追い詰められながらもそういう積極性が死んでないことに自分で呆れる。
しかし瘴気で天使さまを追うことは不可能だ。ネガとポジの理屈からいえば、前者を追求することで浮かび上がってくる後者を感じるよりほかに方法がない。誰しも天使さまが近づけば無防備に瘴気を垂れ流す。きっと何事が起きたのかと家々から飛び出してくるにちがいない。
確かにそれは起っていた。
しかしながら、それは天使さまに反応したわけではなく、その周囲を護衛するように付き従う高位聖職者であり、護衛の竜騎士や魔法の使い手に反応していた。強大な瘴気を発する彼らや彼女らは存在するだけで、一般庶民からすれば、ただひたすらに恐ろしい存在なのだ。そのことにポーラでも気づかない。彼女は誰にでもないが一般庶民に密かに入り込むくせがあった。アミアンにおける老婆のドリアーヌとの会話はそれを示している。それでも自分たちがそら恐ろしい存在であることをイマイチのみこめていないのだ。常に周囲にいるものたちに比較すればずっと理解しているが、それを実践に結びつけるまでになっていない。
しかし、こと天使さまに限って想いを走らせば、庶民たちの反応も容易に想像できる。
身分低き者は、天使さまに出会ったことはない。ただその存在を知識として意識するのみである。
城内に入れる者でさえ謁見できるものは、数えられる程度にすぎない。知識としてはわかっていても、実際に目にしたところで大した感慨は受けないだろう。だが、高位聖職者にここに天使がいらっしゃったと宣言された日には、ショック死が続出しかねない。
大量の瘴気が放出されているが、好奇心が原因のものが多数を占める。だが、いきなり数値が上がったので一国の軍隊が突如として攻め込んできたのかと錯覚した。
きっと群衆に事実が知らされたに違いないと直感した。チリも集まれば山となる、とは言うが、庶民たちにあってもこれほどにはなるのか。枢機卿を始めとする高位聖職者たちは、普段、平民たちが近づくことすらできない。天使さまは、それほど贅沢な衣装を纏ってはいない。にしても、彼らが恐れる特権身分が、あたかも奴隷が主人にそうするようにへりくだっている。
それは異様な光景だった。竜騎士と思われる衛士たちが携帯する魔法燈がそういった情景を照らしている。それがじっさいよりも非日常的な光景を演出している。
こうなっては、彼らも目に見えない光を知覚しないわけにはいかないだろう。
彼らも人間である。身体には青い血が巡り、瘴気を弱いながらも発する。王や公爵レベルの竜騎士や魔法の使い手が、例外的に見いだせることすら皆無ではない。
ここは城内における最も高地にある庭であって、城下町の様子が具にわかる。
平民たちは始めて見る天使さまにどのような感想を抱くだろう。街で出会ったさまざまな人物群を脳裏に個別に映し出して見る。彼らや彼女らは一様に「一生で一度でいいから天使さまにお会いしたい、名前を呼んでいただきたい」と目を輝かせて言った。髪や髭に白いものが混じったいい大人がそう言い出すのだから、ポーラは思わず会わせてあげると言ってしまいたくなったものだ。
じっさいに天使さまが目の前を歩いていらっしゃる。
さぞかし天と地がひっくり返ったような気がするだろう。
天使さまと視線が合っただけで、その人物にとっては青天の霹靂だろう。
何か、演劇の舞台裏を観る前に見せつけられてしまったような気がする。心情的に冷めていく自分を発見して、少女は幻滅せざるを得ない。
帰ろうと踵を返したとき、感じたくない瘴気がやってきた。
思わず唇を噛む。それは絶対に言ってはならない言葉だったからだ。
太妃は、侍女も連れずに、驚いたことに息急き切っていた。
そのことを指摘しようと思ったが黙ったままだ。「殿ともあろう方も同様ではありませんか?」といやみたっぷりにネチネチといわれることは想像するまでもない。
アデライードも黙ったままだ。
この瞬間を逃したらもうやり取りは永遠にできないかもしれない。娘は死地に行くのだ。
呼吸が乱れていることは無言の理由にはならないだろうか。
もはや通常の母娘ではありえない。だが、このままで出師というわけには参らぬ。ゆえに、ポーラに対してすべきことは明確だった。
攻撃する意思を明確にした。それは瘴気からすぐにそれと読み取れるだろう。
しかしながら、あれほど好戦的な彼女がすっと立ち尽くしている。凛とした美しさに思わず殺意すら否定できない。美しさよりも無抵抗であることが許せない。
もしもマリーにそっくりな少女が小さな炎のように立ちはだからなかったら、娘を傷つけていたかもしれないのだ。
瘴気に覚えがある。
彼女に透けて憎むべき娘が立っている。
直撃だった。彼女が無抵抗のままだったら、確実に命を奪っていた。いくらマリーの治療属性能力が常識をはるかに超えるといっても、死者を蘇らせることができるわけではあい。彼女は主ではないのだ。
しかしもしかしてこうした態度を採ることで母親にある効果を期待したのか。
それが復讐の方法かと邪推した。そんなことはありえない。問題の多い、否、ありすぎる、否、問題そのもののような子だが、姑息な真似は絶対にしない。
娘の口が開いたが、それはドリアーヌに対しての言葉だった。娘はドリアーヌの生き霊と会話ができるらしい。しかしアデライードには彼女の言葉は聴こえない。だからポーラの言葉から推察するしかない。
「知らなかった。私の身体はそれほどに大事なものだったのか?ドリアーヌ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「そなたがそれを言うのか?それは納得しかねる・・・」
「・・・・・・・・・・」
すでにメッセージでやりとりする余裕すらないのだろう。母親に知られないようにするのはポーラには簡単なことだからだ。
ここまで娘は追い詰められている、だが、だからといって手を差し伸べてやることはできない。それは彼女をかえって侮辱するいことになるだろう。それ以前にアデライード本人がそれでは納得できない。
聴いているうちに何だかバカバカしくなってきた。理由をつけてここを去るより他にない。それを娘への餞別にすることにした。
ドリアーヌはすべてを覚ってポーラを助けようとしただけだ。しかしどうしてあの娘の周囲には賢い人間がああも集まるのだろう。マリーを筆頭に、ドリアーヌ、アニエスも入れてもいい。そして、あのモンタニアールもだ。
彼女が複雑な気持ちになる理由は、愛息であるジョフロアにもある。どうして彼を後継者になどとポーラは言い出したのか。もとよりアデライードが望んだことだった。否、今となっては黴の生えたナポレオン法典まで持ち出してポーラを威そうとした。このままではあの娘は破滅するより他にないと考えたからだ。ジョフロアは可愛い。しかし後継者としてはどうか。母としてだんだん心もとなくなくなっていたことは事実である。
ペタンとの何気ない会話にナポレオンの話題が登った。それを利用すれば自分の気持ちを露わにすることなく真意を全うできると考えたのである。
アデライードは意図して素っ気なく言ってみた。
「ドリアーヌのことが心配だ。行かねばならない」
我ながら下手な芝居よりも不自然だった。
彼女が寝ている部屋に戻れば、会話ができると、自分の身体に戻るという根拠のない確信があったのである。
ポーラは、ただ母親が消えるのをずっと凝視していた。星々がそうする義務を降らしているような気がしたからだ。
ふいに夜風がマリーの瘴気をかすかに運んできた。
彼女は天使さまに付いて行っているはずだ。いつものように夜の街に忍んで行ってもいいが、彼女がどんな報告をしてくるのかそれを楽しみにしてエイラート奪還を準備してもよい。
ドリアーヌは自分の身体にすでに戻ってしまった。編成の問題など、すでに彼女は戦争の実際面でなくてはならない人材となっている。そこへ行くとマリーしても同様だ。それ以前に彼女は根幹とさえいえる存在なのだ。それを抜きにして何をどうせよというのか。
天使さまの考えていらっしゃることはわかる。
ご自分が衆生に御身を晒すことをポーラに見せたくないのだ。天使さまのお気持ちというのは表現として適当ではない。人間ではないのだから無理もない。通常のやり方が通じる相手ではないのだ。
少女は瘴気を抑えている。
そうでなければ侍女やら侍従やら、普通の身分の者ならばありえないほどに鬱陶しい存在がまとわりついてくる。民衆の生活に侵入することで知った意識だ。だが、ふとした拍子に瘴気が漏れてしまうことがある。それを敏感に察してしまう彼奴がいるのだ。
アニエスがよろしくない感情をむき出しにして近づいてくる。
もはや逃亡しようとは思わない。いったい、どこに逃げ場があるというのだ。世界の何処にもそんなところはないのだ。
話しかけられる前に彼女の発言を想定して機先を制することにした。ここは冗談で乗り切るよりほかにない。笑えない状況が目白押しで神経がいい加減に参ってしまいそうになっているのだ。それを打破したい。
「アニエス、ナント王が攻めてきたのか?大変だ。私たちがまっ先に防衛に立たねばならないな」
「・・・・・・」
アニエスはその吐息が背中にかかるくらいに近距離にいる。しかし無言を通されるのは、面罵されるよりもむしろ堪える。
「言いたいことがあるのだろう?何を黙っているか?」
「公爵閣下の、公爵という文字の並びは元々どういう意味でしょうか?」
幼いころに誰かが誰かに語っていた言葉を思い出した。
「その説教はもういい、ごめんだ。わかっている。公の場に私は常に身を晒さねばならないのだろう。庶民とは違って、ということだろう」
「お分かりならば、申し上げることはありません、閣下」
「で、庶民ならば許されるのか?しかしそれをどうしてそなたが知っておるのだ。ドゴール伯爵だろう?そなたは?公爵ほどではないが、伯爵にもそなたの言う原理は適用されるべきだと思うが?あるいは援用と言ってもいいが」
アニエスは不敵な笑いを浮かべた。小娘など自分の敵ではないという顔をしている。
「爵位を継承する前に庶民に遊んだことはあります・・・・」
「語るに落ちたな・・・ま、冗談を言っていられるのは今くらいか・・」
いつものように瘴気を放出させて、自室に向かって歩みだす。侍女や侍従やその他、鬱陶しい連中が集結してくるだろう。が、公爵ならばそれを甘んじて受けねばならないだろう。
「マリーが待っているようだな、だから呼び出しに来たのか?」
「閣下が本気を出せば私ごときに探索は出来かねます、本当は見つけてほしかったのでしょう?閣下」
いつものように、この40女は一言も二言も多すぎる。
悪意は瘴気に乗って伝わってしまったようだ。
「面倒ですが、家臣に一言いいたいときは実際に口を動かしてもらえませんか?」
ナント王を例外とすれば基本、竜騎士というものは直情径行タイプが多い。竜騎士道なるものを紐解いてみれば、そこに並んでいる道徳群からどれも明らかだろう。
デコイで騙すことこそが魔法道とは、竜騎士道の四角四面な真面目さを揶揄した言い方に他ならない。そこへいくとナント王は相手を騙しに騙し、陰険な方法で相手をつぶしにかかる。
「幼女・・」
久しぶりに彼の声を聴いた。
まさかドリアーヌのように生きながら彼が自分の身体から飛び出せるはずもない。だが、あのピエール二世ならばあるいは・・・・とも思う。
そういう疑いを自分に抱かせる。
ポーラはその自分の名前に自分が悪意と怨念しか感じていない。だが、自分の中にそれとは別の感情が生まれていることに気づいていない。気づきたくないのではない。それを認めてしまったら心が壊れてしまうと危惧しているからではない。単純に、まだ、幼いせいにすぎない。
が、自分がむしょうに何かを求めていることくらいはわかる。そしてそれを得るタイミングとしては今しかないのだ。
ブリュメールのミサがこんなかたちで終わるとは思っていなかった。聖伝における天使さまに関する記述に匹敵すると思っていた。七つのラッパが吹かれると、世界が仰天するという、世界に生まれた者ならば誰でも知っている物語だ。
天使さまがラッパを吹かれたのは事実なのだろう。
世界中がとんでもないことになっている。はやく、方々に配した友人たちと連絡を取らねばならない。
しかしその前に心を何とかしなければならない。
このままではアラス城を劫火に包んでしまいかねないからだ。背後に従うアニエスがそれを察しているとおもうと余計に腹が立った。




