ブリュメールのミサ8
ミサ前の食事は質素にすべきというのは、何も具体的に聖伝にそういう記述が見いだせるわけではなく、聖職者の説教内容に盛られているわけでもない。
あるいは聖なる行事を前にまともに食餌が喉を通るわけがない、という風に主への畏れがそうさせるわけではない。単に慣習、いうなれば同調圧力にすぎない。
太后アデライードは慣習に従って質素な食事に甘んじようとしたが、それはあくまでも体調がすぐれなったからにすぎない。
魔法燈は明るさを抑えてある。その明度によって部屋の主人の機嫌がそのまま表されているようにみえる。
ここは太妃の私室である。彼女が夕餉の用意をさせようとしたところで、マリーとジョフロアが鉢合わせした。少年は帰城したところ母親に呼び出されたと言った。
彼の姿を見たとたんに、そのアイデアが脳裏に浮かんだのである。しかしながら、それを提案する暇は太后によって奪われた。
彼女は、頭を下げた愛息の頭髪を眺めている。もはや撫でて云々する年齢ではない。しかしその柔らかな金髪に手を触れたいという気持ちを隠せない。その代わりに言葉を発する。
「ジョフロア、そなたに似合わず狩になど行っていたのか?しかし全く乱れていないのはどうしたことか?」
しかし母親の心は伝わらないようだ。
「姉上さまならば、狩りの後とて全く服装の乱れはないでしょう、とこうおっしゃりたいのですか?確かに私は何もしていません。ただ傍観していただけです。鹿を狩ったのはフィリップです」
ジョフロアがそのようなことを恥じる姿をマリーは珍しいと思った。それ以前に狩衣姿そのものがめったに見られるものではないのだ。
何となれば母上さまはそのようなものを好かないからだ。マリーが知っているジョフロアは、あえてそういうことをする人間ではない。ナポレオン法典絡みでフィリップに助言したことも併せて人間の種類が変わってしまったとしか思えない。
この子にそんな知性があるとは正直、自分もポーラも考えていなかった。いきなり姉上さまは彼を継承者にすると宣言した。何とも頭の切り替えの早いことだ。確かにこれまでの評価を一変させるに値する発言ではある。しかし本人に確かめてからでも遅くはない。
フィリップ・ド・ペタンとは信用できるのか。それよりもジョフロアが信用できないと言った方が正しかろう。彼の進言であると証言したのはフィリップである。真実は、彼が勝手に捏造したのではないか。もしも彼が陰謀に参加していればありうることだ。ペタン一家はジョフロアをこそ公爵位に押し上げたいのだから。ポーラはそれを追求せずに重大なことを決定してしまった。フィリップが一途にジョフロアのことを考えてのこと、という考えも成り立つがここは将来のことを考慮して悲観論をこそ採用すべきだ。
いずれにせよ、フィリップを通じて姉上さまの考えは伝わっただろう。さぞかし肝を冷やしたに違いない。あわよくば改易に至っても常識から考えれば誰も疑問を抱くことはない。
マリーとしては彼らが許せない。
母親として、娘の安全を単純に希う気持ちを利用して我が勢力の拡大を図った。人のいいことに、姉上さまはペタン家を信用しているようだが、している振りをしているという穿った見方も可能だが、マリーまでも騙せると思ったら大間違いである。
確かに一挙に叩き潰すことで、エイラート奪還に影響したら困る。
もしもその話がなければペタン家に公爵家の家臣として生きる栄光を賜っておくべきではない。そう強く進言していたところだ。
ジョフロアは、マリーに敵愾心を抱いているような気がする。姉上さまから何度も庇ったのは自分なのだ、という自負が彼女から適格な状況判断を逆に奪った。
ジョフロアはマリーを睨んだ。
「伯爵殿は仰ったそうですね、今宵は水入らずにしたいと・・・・」
伯爵殿とな?
母上さまでなくても、発言者がジョフロアでもマリーは傷つくのだ。
おかしい、こんな目つきをする子であったか。同じ血を分けた人間として、あまりにも姉上さまとの差異がありすぎる。劣等感でかなり精神がひしゃげたことはよく知っている。が、だからといって自己を否定するようなことはなかった。少し見ないうちに大人になったというわけでは、もちろんない。
少年は言い放った。
「水入らずと言うならば、あなたがここにおられる事自体がおかしいでしょう?」
マリーは苛烈な瘴気の出し入れを感知した。これはまずい。しかし普段、母上さまは必要以上にジョフロアに甘いのだ。それがどうしたのだろう。この態度の変貌ぶりには戸惑いを隠せない。
母上さまがいつになく本気で怒っていることは、まぎれもない事実だ。すでに単なる脅しではなくなっている。本当に攻撃するつもりだ。姉上さまと重なる。
ジョフロアの態度に自分が傷つくことよりも、か弱い彼の精神と肉体が負傷することを恐れたのである。
が、遅かった。母上さまは杖をすでに魔法を始動させていた。
「何ですって?もう一度、言ってごらんなさい?!」
「母上さま、私は…おかしいでしょう?姉でもないのに、姉と呼ぶことは・・・・それは主の教えに反します」
少年は、それでも気丈に言い返す。しかしそれは強さ故ではないだろう。姉上さまに対する極度の劣等感が強いているわけでもない。もっと強烈な何かだ。そして、それは彼が継承者であることを保証するものではない。
ジョフロアは一瞬で視界から消えてしまった。
瘴気の在りかを辿ると、少年は天井で無残にもひしゃげていた。太妃の趣味で普通よりも天井は低い。
「この程度の魔法で??もしもポーラならば、3歳でもこうはならない。それをそなたはむざむざと?!」
母上さまが姉上さまをポーラと呼ぶのはたとえ本人がいないにしても久しぶりのことだった。大袈裟に言えば生まれる前のことにすら思えてくる。
マリーは、しかし、既に冷静に治療属性モードに入れ替わっていた。
肋骨が一本、折れて、三本に罅が入った。
胸部の内部出血が激しい。
速やかなる治療が求められる。
「母上さま、杖が鈍っておいでなのですか?」
「マリー?」
「致命傷ではありませんが、看過できませぬ、一治療属性として・・・」
明らかに母上さまは自分を見失っておられる。
その理由を察すればマリーとて平静を保つのは難しいが、新領土を得たことがこの治療属性をして本来の在り方を守らせせしめた。
母上さまは、なおも魔法を抑えようとなさらない。
「ジョフロア・・・・」
怒りのあまり自己を忘れる。そのようなことが母上さまにあるとは思わなかった。あの姉上さまを前にしても冷静を通したにも関わらずだ。お二人との関係とは異なる何かがあるのか。
今はそんなことは言っていられない。
「母上さま、早く、あの子をおろしてください」
いくらなんでも母上さまの瘴気に対抗するなどありえない。姉上さまとは確かに一色も二色も違う。いや、違いがありすぎる。もしもこの人が戦場に在らば、何百人が死なずに済んだであろうという姉上さまの洞察は正鵠を射ている。
果たして、ジョフロアはゆっくりと降りてきた。母上さまの気遣いはわかるが、それどどころこではない。
血色が悪いことは顔色からもわかる。
胸がダメージを受けたから、そこに手をもっていくわけではない。人間の中心、精神の居候場所はその部分にこそあると言っても過言ではないからだ。
降りてきたジョフロアを抱きかかえて、そっと施術を始める。
とたんに反抗を示す瘴気が検出された。本人が治療を駄々っ子のように忌避している。
「お黙り!!ここは私の領土だ!!」
有無を言わせずに治療の剣を少年の身体に突き刺す。これが戦場のやり方であり、それはポーラの文脈とは違った意味で戦なのだ。それを母上さまが見咎められたことは留意している。しかしそんなことは言っていられない。
致命傷ではない。これは母上さまを気遣ってのことではない。正真正銘の事実にほかならない。ただし、人が傷ついているのを目にして不作為は許されない。それは治療属性に相応しい態度ではない。
思わず周囲に怒鳴りつける。
侍女や侍従の内に治療属性を志す少年少女を見つけのである。
「そなたら、すぐさま田舎に帰るがいい!!」
それでもわらわらと集まってくるが、意に介している暇はない。しかし後進を育てるという役割を忘れたわけでもない。
「聖なる戦に土豪は必要ない。どうしてそなたらがここにいるのだ?治療の邪魔だ!気が散る!」
しかし四人は微動だにしない。マリーに謝罪すらしようとしない。が、これでいいのだ。治療属性が、戦場ですべきことは身分の上下を気遣う宮廷作法ではない。礼儀も何も忘れてただ患者のみに意識を集中させるだけだ。
治療は、患部やただ胸部に瘴気を注入しさえすればよいというものではない。それならば竜騎士だって、だれであっても高貴な血を受け継いでいさえすれば可能なはずだ。
どうしてここで特定の人間が脳裏をよぎるのか?姉上さま、ナント王ピエール二世。
次に浮かんだのは、ジョフロア、目の前の彼ではなく、幼いころいつも泣いていた。マリーやポーラの裾にとりついてなかなか離れようとしなかった。
こうして負傷したジョフロアを見ていると、当時の彼をどうしても思い出す。
人間の部分によって瘴気の感受性が違う。個々個人によってさらに違うのだ。姉上さまの身体など、マリーの知らぬところはない。
治療該当者についても、幼いころから触れている身体だ。だが時によって変化するものであり、精神のありようによっても微妙に変化する。それを読み取って適切な瘴気を適切な場所に注入しなけばならない。随分とジョフロアの身体に触れていない。もっとも、治療中には、そのようなことを四人にわざわざ説明する必要はない。ただし、後から事細かく口頭試問しなければならぬ。
複雑な思いに駆られながらも、ようやく治療は軌道にのりはじめた。その証拠に静かな寝息を立て始めた。
試問はミサが終わってからにするつもりだった。だが腑抜けた弟子たちの表情をみているうちに、いつしかマリーは辛抱が足らずに、四人の内の一人に質問していた。
「マルゴ、答えよ。何が患者の体内にあって過剰だったか?」
「は、伯爵閣下、黄、黄胆汁が過剰でありま・・・・」
「愚かもの、攻撃された故に単純に傷だと、外傷だと解釈したのか?そなたは患者を診ていない!状況もだ。攻撃者の魔法は患者の内部に侵入し、身体をえぐったのだ。よってき対処しなくてはならないのは黒胆汁、元素でいえば・・・」
「地です」
「そうだ、マルゴ、ここに瘴気を当て、乾度を微調整しなければならない、他に留意すべきことは何だ?エマニュエル?」
「は、はい・・」
質問者に顔すら向けずに、マリーは怒鳴りつける。ジョフロアは、運ばれてきた担架に乗せられたところだ。それを横目にしながらさらに怒鳴りつける。
「さっさと答えよ。治療は時間との勝負だ・・・その滞留が患者を死に追いやるのだ!わかっているのか?!」
「は、はい、母上さま・・」
「私はそなたの母上ではない。緊張しなくてもよいから、正解を述べよ」
「はい、他の要素、気、水、火、すなわち、け、血液、粘液、黄胆汁との関係を比較、精査する、こと、ことであります・・・」
「正解だ。間違えば、即座にレンヌに押し返すところであった」
「・・・」
「そなたら、戦場は初めてではないだろう?」
「いえ、私以外の三人は体験しておりません、閣下」
唯一、最初から最後まで冷静さを押し通したユーリーが答えた。
「そうだったな、私も頭に血が上りすぎていた」
給仕が食事を運び込むと同時に母上は言った。
「侍従、侍女たち、疲れたであろう、もう休んでよろしい」
「は、母上さま、まだ教授が・・・」
「もう食事の時間ですよ、マリー、余興は終わりました」
いつの間にか、部屋には母上さまと自分以外に誰もいなくなっていた。
質素といいながら、さすがは宮廷で日常的に運ばれてくる料理は洗練されている。きっと色とりどりなのだろうが、心の現況がそれを感知することを邪魔している。
少女は見られてはならない顔を見られたような気がして、思わず穴があったら入りたくなっていた。その気分をわざと壊すように肉に手を持っていく。治療はすなわちエネルギーの放出である。空腹を覚えないはずがない。
「母上さま、いま、見られたことは全部忘れていただけませんか、願わくば・・」
怯えた犬ほど吠えたくなるとはよく言ったものだ。母上さまが黙っておられるので、マリーは何かを言わねばならないと口を動かしていた。
「あ、姉上さまと同じようと・・あまりなお言葉・・・・・」
「いえ、ポーラとそっくりな顔をしていましたよ、マリー?」
「師匠ではなくて、ですか?」
母上さまは、なぜか師匠のことは眼中にないようでポーラのことに言及しはじめた。
「戦場におけるあの子を私は見たことがない。だけど訓練をこっそり見に行ったことがあります」
もしも姉上さまがいたら、悪鬼、悪魔などと罵詈雑言が美しい口から迸っていただろう。
「母上さま、私は姉上さまほど強くないのです。もしも母上さまに伯爵殿などと呼ばれた日にはもう生きてはいられません・・・」
表面的な性格の悪さは、お二人はよく似ている。さすがに血を分けた母娘という感じがする。
「14歳の子供を持つ母親であろう、そなたは」
「あの子が言うことが正しければ、私は三歳で出産したことになります・・本当に乳離れしていない子供を送り込んでくる親も親だと思います」
とたんにノーブルな顔が意地悪くかすかに歪んだ。
「そうなのか、母上と呼ばれたそなたはまんざらではなかったようだったわね、皺が何本も走ったようだが?」
母上さまの言葉が終わるより前に門番の声が響いた。食事の用意が参っているというのだ。これまで起こったことは、それほど短時間内に収まっていたのか。時間感覚がおかしい。ここは平和なアラスの城で、戦場ではありえない食事に預かっているのだ。椅子に座ってテーブルに向かうなどと、領土では考えられないことだ。
肌の皺のことは意識的に無視しようとしたのだが、母上さまは許してくださらない。
「マリー、ちゃんと肌の手入れをしているのか?治療属性の養生知らずとはよく言う話だが?」
いたずらっ子ぽく笑った母上さまは、どこまでも姉上さまに酷似していてマリーは二重に嫉妬せざるをえない。母上さまは、実母の姉であるゆえに彼女の身体にも同じ血が流れている。誰に指摘されるでもなく同じ系統であることは、鏡が教えてくれる。だが、だからといってこの二人の近似に嫉妬しないというわけにはいかない。同じ屋根のしたで暮らしながらいがみ合っていることには怒りを覚える。エイラート奪還がこれまでとは全く違う戦いであることは推測できるというのに、互いに心を通わせようとしないのだ。
姉上さまを呼ぶことを提案する気はもとより消え失せた。
しかしアデライードはそうしたマリーの気持ちを読み取っていた。
「済まぬな、マリー。そなたの期待に応えられなかった」
わざと素知らぬ顔をする。これくらいは許さるというものだ。
わざと姉上さまのように魔法を使って肉を切り取ることも同様だ。
わざと時間をかけて噛み、かつ呑み込んで、しかもワインに口をつけてから言った。
「ジョフロアと食事を同席できなかったことでしょうか?母上さま?」
「怒っているのか?ジョフロアを傷つけたことか?」
母上さまにはすでに本心が伝わっている。それを示すようなことをいいだした。
「もう、血管は繋がったのかしら?」
「はい、もう肋骨に入ったヒビは自己修復しました」
二人の間に沈黙が走る。
四人だけでなくすべての侍従や侍女は下がっている。息が詰まりそうになる。母上さまとこのようなかたちで相対することがこれほど辛いなどと、これまで体験したことがない。
それにしても姉上さまが涼しい顔をしているイメージが突如として脳裏に浮かんだ。
これは受信したメッセージではない。
そうなのだ。
自分はこのように見なしている。
その証拠だ。
先ほどの瘴気の動きを姉上さまが感知しなかったはずがない。しかしまったく動かれなかった。きっと何事もなかったかのように魔法で切った肉を口に運んでいたにちがいない。マリーも同じことをしたというのに、母上さまは全く注意をなさらなかった。
自分はそれを期待していたのだ。
無駄な思考は鐘の音が消してくれるだろう。それを期待するしかない。




