太后アデライド6
「あれが人の親とは・・・・」
まさか主君の口からあのような言葉が迸るとは思っていなかった。
それを恥じたのか、当の本人は壁に向かって項垂れている。
「公爵閣下ともあろうお方が、なんという恥のないことでしょう」
「ここには余とそなたしかいない」
だから何ですか、とアニエスは毒づきたくなった。
「確かに私はあなたさまの家臣です」
その後、主君がどんな言葉を続けるのか興味があった。どうやらこれから戦場にて生命を預けることになるらしい。
淡々と主君の言葉が続く。まるで意味なく放浪する軍勢のようだ。
「単に契約を結んだだけだ」
「ならばここで解消してもよろしいでしょうか。伯爵家としては仕えて果実をもたらしてくれる家にこそ、契約を結びとうございます」
アニエスは本気で言ったわけではない。主君を試すのは無礼だが、いわゆるご機嫌伺いのようなものだ。
「それもいいかもしれない」
呆れるべきか、それとも別の感情を発動すればいいのか迷う。そもそもその気持ちを表す言葉がみあたらないのだ。
あえて言うならばこうだ。
「ピエール陛下は、閣下を幼女とお呼びしているそうですが、どうやらそれは適当なようですね」
刺激が強すぎただろうか。
少女は立ち上がろうとしたが、足を覆い隠すまでに長いスカートのすそに足を取られた。危うく転倒するところではあったが、そこいらにいる竜騎士など足下にも寄せ付けない主君のこと、魔法を使わずに立ち上がった。しかし少しは気恥ずかしいのか、まるで跳躍しこそねた猫がコーミングするように、主君は自分の頭髪に触れる。アニエスは主君を子供のころから知っている。いくら格好をつけてもすべてはオミトオシだと知ってか、知らないのか、少女はそれでもなけなしの威勢を修復しようとしている。
アニエスは、意外と主君が冷静であることに気づいた。
確かに彼女の知らないところで成長なさっていたらしい。
「閣下・・・?!」
こちらに向けられた顔は心なしか自信が取り戻されている。
「モーパッサンにすでに必要なものは揃えている」
はるか南にある海岸自由都市だ。条約によって主がお定めになった君主が存在しない。諸侯が交流をするために各地から終結すると聞く。中央から離れたへき地であるはずなのに、やけに栄えている。略奪の中継地になっていると聞く。アニエスは、その理由について何か他にあるとは勘付いてはいるが本当のところは知らされていない。
ミラノ教会が20年前から働きかけて条約の締結に動いたことは、ポーラやナント王でさえ知らない。それぞれ前公爵や王は何か如何わしい力が働いていた事実は摑んでいたが、それが確かなものではなかったために、後継者には知らせなかったのだ。
が、どうしてそんな都市のことが気になるのか。
当然、アニエスはエイラート奪還軍のことは知らされていない。
ポーラは感情に乱れつつも、若い家臣たちを方々に放って事を進めている。
若い・・といってもどの顔も主君よりも年上である。だが、つい若いという言い方をしてしまう。彼らにはもちろん事実の根幹について何も話していない。ただ略奪について規模を拡大したいとたげ告げているだけだ。
ポーラとしては逆の効果を狙っている。家臣の力量を試すわけではないが、この過程においてどのくらい事実を洞察できるのか、それを探っているつもりではある。やり取りをした時点においては、幾人かが普段とは違う気配を感じ取っているようだ。
だがいずれも自らの身分の低さを理由に追求しようとしない。
アニエスが考えている以上に、ポーラの思考回路は煩雑をきわめていた。だが、母親のことが精神で最も重要な部分を占めていることは確かだった。それを解決できなくても補佐できるのはアニエスのような年長者でなくてはだめだった。
だが、ここで少女をイラつかせる状況が起こった。ナント王が脳裏に現れたのだ。それは新ドゴール伯爵が「幼女」などと言い出したからだ。
そのように理由付けたい。そうでもなければ、あのいやらしい男が心の鏡に映し出された事実を説明できない。故に彼女のせいにした。
「アニエス、良かったら剣を鞘から抜いてくれないか?」
口上は提案のかたちをとっているが、内実はそんなものではない。確かめるまでもないことだ。
アニエスはマリーの相手をして疲れている。できることならば、何事もなくこの場を切り抜けたいと考えたがどうやらそういうわけにはいかないような雲行きだ。
ところが、そのマリーが止めてくれた。彼女の瘴気を感じ取ったポーラが言った。
「どうやら太后さまとの会見が終わったようだ」
「気になりますか?閣下」
黙って察しせよと主君は苦笑いをして部屋から出て行った。彼女の後を追う侍女たちの足音を耳にしながら、アニエスはこれから起こる予兆を何とか空間から得ようとしていた。もちろん、他の例も漏れずそもそもアラスという土地が魔法源泉であり、その恩恵を竜騎士も使い手も得ている。
しかしもっと高いレベルで世界は魔法源泉でできていると学者たちは主張している。それならばどこでも同じレベルの魔法が発現できるはずではないか。そういう突っ込みを無視して学者たちは壮大な世界観を提出する。ある意味、大陸を闊歩する吟遊詩人たちよりも夢想的ではあるが、その考えを必ずしも否定できないのが残念だ。
太后さまに常に近侍していた結果かもしれない。なにせ常に行動を共にしていたから親よりも影響をうけている。
しかし自分はあくまでも剣のみに生くる竜騎士なのだ。
剣を抜いてわが顔を映してみる。
小賢しい学者が言うように空間に訊ねるよりも、ずっと剣に聴いた方がよい。
だがこの時ばかりは白いひげで覆われた口を信用する気になった。剣に映ったわが顔があまりにもひどかったせいだ。
空間は、こう応えた。
「近く大戦がはじまる。それは歴史上、人が体験したこともないものだ」
それはアニエスの直感とも合致した。
だが自嘲する。
「私は巫女でも、マリーさまでもなく、斬ることが専門の竜騎士なのにな・・・・」
彼女がマリーについて忌避感情を抱くのは、彼女が備えている能力にあった。主君とはべつの意味で尋常ではないのだ。
「本当に空恐ろしい。同じ人間とは思われぬ」
攻撃魔法の威力は誰の目にも明らかだ。城をひとつ使い物にならなくするぐらいのことを目の当たりすれば下手人を怖れるのは当然だろう。しかしながら、マリーは違う。巫女の非人間性とも異なる種類の違和感だ。
ポーラの場合はあるいみ直線的に攻撃である。その点、竜騎士にも通ずるものがあるが、マリーについてはそうではない。
「確かに尋常ではない」
マリーの後から太妃さまのお顔が見えた。
アニエスは、お二人とも、相当に表情が険しいことを予想した。確かにマリーさまはその通りだった。しかし太妃さまは飄々としたお顔を為されている。
「あら、お殿様をお待たせしたなどと、この国に住む人間としていたたまれませんわ」
「いえ、太妃さまにはお機嫌麗しく」
これが母と娘の会話だろうか。いや、これこそがこの母娘の会話なのだ。それ以外にはありえない。こんなものにオタオタしていては、それこそこの国の宰相など務まるものではない。が、何と?いま、自分は何を言ったのだろう。宰相と?そんなものに自分はなるつもりなのか?父、シャルルからそんなことを言い聞かされた覚えはない。しわがれた声で唯一記憶に残っているものは、これだけだ。すなわち、ただ、運命の成り行きに任せろ。
ならば、今現在はどのような運命が進行中なのだろうか。
アニエスは甘かったのだ。ここに主君がいることを考慮していなかった。
「殿様にはそのお姿には似合いませんね」
「太后さまは私がどんな風だったら、似合うと思われますか?」
太后は笑った。おおよそ彼女に似つかわしくない表現だが、はにかむような笑顔を一瞬だけ見せる。
「甲冑姿こそが如何と?どうでしょう?殿様」
「あいにくと私は竜騎士ではありませんが?」
いつもの太后の表情に戻った。悪意が丸出しといった顔つきだ。
「返り血で身体が汚れてどうしよもないでしょうに、いや、あなたはそれをお望みなのですね、殿」
アニエスは嘴を突っ込まざるを得なくなった。あえて素っ頓狂なことを吐いてもこの場に滞留した空気をどうにかしたかった。
「そろそろミサが始まりますが?」
「アニエス、それは明日の晩のことだろう」
その話をしてもっとも不快にさせたのは太后だった。そんなことは簡単に予想できたはずなのだ。だが、よほど神経が混乱していたとみえる。
「・・・・・・・・・・」
無言で太后は自室へと向かおうとした。侍女を呼ぶ。何事もなく時間が過ぎようとしている。しかしそうは簡単にいかなかった。
一瞬だけだが、そこにいる誰しもの視力が奪われた。
そして次によみがえった瞬間にとんでもないものをみなが目撃することになった。
全裸になった、いや、されてしまった主君がすくっと立っていた。
まったく恥じ入ることなく、そして、自己に起こったことに言葉を失うまでもない。何せ、皮肉を言う余裕があるぐらいだ。
「これは、これは、太后さま、ご立派な衣装をありがとうございます」
「先ほどの衣装は殿には全く似つかわしくありません・・・返してもらいます」
一体、何事が起ったのか。魔法か?太后さまの仕業だろうか。そんなはずはない。一切、瘴気の発動はみられなかった。しかし主君はそれを認めているようだ。
「これほどの魔法の使い手であるのに、能力をお使いにならなかった。そのためにどのくらいの将兵が青い血を流したと思われます?太后は私を人殺しと呼ばれるが、それは間違いでしょう。そのことはだれの目にも明らかです。少なくとも私の目には・・・・」
侍女たちは恐れおののいている。誰しも目に涙をためている。アニエスがいなくなることに彼女たちは不安を覚えているだろう。しかし主君が全裸になった理由を知ればそれは瞬く間に消えるにちがいない。
アニエスはそう考えた。
マリーすらも、もはや太后を追おうとはしなかった。




