太后アデライード5
マリーはアニエスと干戈を交えようとしている。稽古というにはあまりにも真剣すぎる。瘴気の如何から、対戦相手だけではなくだれの目にも明らかだ。
「マリーさま、一体、どういう風の吹き回しですか?」
アニエスの言葉が終わるより前に少女は突進していた。剣を持つ右手を繰り出す。彼女の喉元があるはずの場所に剣先を食い込ませた。
しかしながら、すでにそこには何もなく背後からアニエスの声が聴こえた。
「マリーさま、お約束どおり魔法を使われないご覚悟は殊勝とは思いますが、身の安全を省みず猪突猛進なさるどういうおつもりでしょう、あなたらしくもありません」
少女は行き場のない感情をとにかくも燃焼させる必要があった。姉上さまと母上さまはどのようなやりとりをしているのだろう。そう思うとただ黙って待っていられなかった。会見を終えて出てきても、しかし、言葉は一切必要がない。顔さえ見られればすべてわかる。ルイのことも加われば、少女の精神といえども制御に困る。
もともと、マリーは、大軍の指揮ならばともかく白兵戦向きではないし本人もポーラんのように好まないはずだ。魔法の使い手だが、その特殊体である治療属性であり、怪我人を回復させる役割である。竜騎士とは、ただひたすら能力のすべてを剣技にのみ特化させた存在だが、少女はそれからもっとも真逆な存在に他ならない。しかしそれでもポーラの弟であるジョフロアよりもはるかに強い。
アニエスは、はジョフロアの教育を一手に任されている。
母親である太后は言う。
「戦闘に向かぬのならばそれでよい。素質以上を求めてはならない」
それはせめて自分を守れるだけの剣技は身に着けさせろという意味だが、本当のことを言うとそれすら難しいのが現実だ。そこへ行くと、マリーは十分である。実を言うとアニエスは彼女たちに剣を握ってほしくない。ポーラとマリーは、それどころか並の竜騎士をはるかに凌ぐ。実はというと彼女にあまり剣をふるってほしくない。ジョフロアどころか、竜騎士の多くから自信を失わせかねないからだ。賢い彼女たちがそれを自覚しないわけがなく、いわんや大軍を指揮する立場であるならばわからないということは考えられない。
しかもポーラの場合、あまりにも特殊すぎる。
彼女の気性ならば剣をふるうことを選ぶとだれしも考えた。しかし握ったの・。;lkkは杖だった。
アニエスはドゴール伯爵家の人間である。主が与えたもうた身分とえば同格なのだ。しかい公爵家との関係性において特別な地位を約束されている。客人でありながら、公爵家の一族であるかのように扱われ、かつ振舞っている。それが気に入らないといえば気に入らぬ。だが、マリーという個性が主君にとって必要不可欠なこともわかっている。太后の寵愛を一手に引き受けているが、それを傘にすることは彼女の性格からいってありえない、。
だが逆にそれが小賢しく思える。
そういう立場を利用して少しは居丈高にふるまえば平凡だと笑ってもよい。それもできぬとなれば、アニエスとしては感情の処理に困る。40歳を越えた自分がそのような幼い感情に弄ばれていることを忸怩たる思いに駆られないではない。そうした気持ちがマリーに当たりすぎた。これは完全なる八つ当たりだ。
それゆえに腹に据えかねるという面は否定できない。しかし相手は17歳、自分の、娘のような年齢の子供だ。少しは大目に見るべきである。
アニエスは、その華奢な身体に似合わぬ大剣を伏せながら言った。少女はそれに自らの青い血がべったりとついているような気がした。
「もうお止めください、マリーさま、私としてもあなた様をいじめたいのはやまやまですが、これ以上は程度が過ぎるというものです」
マリーは、自らとアニエスの大量の瘴気に煙られて自らの息がかなり上がっていることすら忘れていた。
「剣がこんなに重いだなんて・・・・」
「ですから、マリーさまには剣には似合いません、杖をどうぞ・・・」
「そんなものは単なる飾りにすぎません、それはあなた方竜騎士でも同様のはず」
少女は自らを剣に代えるとアニエスに向けて飛ばそうとした・・・というのは、妨害が入ったからである。
その正体は自分に聴けばすぐにわかる。
母上さま。そして背後からのっぽが罪のない笑顔を見せた。言うまでもなくポーラである。どうしてそんなお顔ができるのか、いますぐそのキレイな顔を羊皮紙のようにくしゃくしゃにしてやりたくなった。
太后は怒りを押し殺しつつ言った。
「騒々しい、アニエス、あなたがいながら何をしている?」
咄嗟にはマリーは声を出すことができなかった。
いつになく厳しい視線を送ってくる。
「・・・・」
「まあ、そんなに息が乱れて・・・・どういうつもりなの?」
「マリー?!」
「公爵閣下、閣下はここで起こっていたことをご覧になっておられたわけですね、その上で私をお責めになりますか?」
「ドゴール伯爵、私はそなたを責めてなどいない。それはさすがに先回りが過ぎるというものではないかね」
「閣下、何と仰せになりましたか?私はドゴール伯爵ではありませんが」
「近い将来、そういうことになる・・」
「まさか父上が・・・・?!」
「どういうことなのです?ポー、いえ、どういうことであらしゃいますか?公爵閣下・・
」
ポーラはすでに笑顔を抹消していた。ああ、あれは強がりだったのかと、やっと少女は納得した。心の中で姉に謝罪する。
「姉上さま、申し訳ありません」
マリーは消えゆく意識の中で二人を見つめていた。
親しんだ、いや、親しみすぎた吐息が上から掛かるのを感じた。姉上さまだ。
はたして、少女はどちらをより強く欲求したのだろう。
どちらでもよかった。否、贅沢を言うならば両方がいい。お二人とも彼女にとってはこの上なく大事な人たちなのだ。互いに和してこうやってほしい。
マリーはポーラの腕の中にいる。
ポーラはアニエスを睨んだ。
「どういうつもりか、アニエス、いや、伯爵位を継いだと?」
新伯爵は何も知らないという顔をしている。しかし太后は顔色を変えない。ポーラとアニエスがほぼ同時に言った。
「本当ですか?」
爵位とは、主が定めたもうた身分である。たとえ契約を結んだポーラとはいえ譲位を承認する権利はない。ミラノ教皇のみにある。しかしながら世界全体の士大夫すべての授爵を教皇庁がやっていては手続き的に不可能である。だからほとんどは王や公爵に任せられているが、各地の名門貴族はいまだに教皇庁が権利を手放さない。逆に言えばドゴール家は名家だということだ。
しかし主従の契約を結んだポーラに話しぬきに承認が行われた。それはどういうことか。前伯爵であるシャルルは重臣である。少女の信頼も厚い。彼の独断ということは考えられない。太后が裏から手を伸ばしたのか。きっと、ナポレオン法典を持ち出した経緯に関係があるにちがいない。しかしその話はすでについた。だが、わだかまりが残る。
シャルルがエイラート奪還軍に参加するのは健康的な問題から不可能だろう。それはわかっていたのだ。彼は高等法院院長にコネクションを持っている。太后はそれを嫌ったのだろう。アニエスならば御しやすいと考えたのか。
こうなると、マリーの言う通りに事を為したことが悔やまれる。ブリュメールのミサにおいて赤っ恥を太后にかかせてやればよかった。
一矢報いずにいられるものか。
ポーラはマリーを抱き上げるなり、アニエスの前に立った。
「ドゴール伯爵、契約により従軍を命ずる」
太后の顔色が変わった。
「ま、まさか、アニエスを従軍させるというのか?・・・と言われるのですか?殿?!」
「太后さま、私は主従契約に基づいて当然の権利を発動しているだけです、ちょうど、あなたさまがナポレオン法典発動において、公爵としての権利を停止させるために三分の一の権利を有していると同じように、おわかりですね・・・・さ、伯爵参れ。太后さま、我々は来る出師のために準備をせねばなりません。それと今夜のミサには、この素晴らしい衣装で出席させていただきます。残念ながら、一生で最後ですが・・・」
「・・・・・・・姉上さま?!」
マリーはポーラの腕の中で果たして目を覚ましていた。姉の言葉のほとんどを耳にしていた。彼女の表情がそれを物語っている。
「マリー、全部、聴いていたのか?」
「姉上さま、私に剣をお渡ししてもらえますか?」
「マリー、そなた、それで私を刺すのか?」
「いえ、ただそれだけでなく細切れに裁断しとうございます・・・」
それは抱かれている人間が抱いている人間に対しておおよそ言う言葉ではなかった。だから少女は顔を赤らめた。
「下してください、人非人にこれ以上は抱かれていたくありません」
二人にとっては単なる痴話ゲンカにすぎないのだが、周囲に集まってきた侍従、侍女たちはおろおろしている。彼ら彼女らは、自分たちの頭がいなくなることを知らされたばかりでそれも加えて気が動転しているのだ。
「ア、アニエスさま・・・」
身分が低い人間がいる前でこのようなことを言うサンジュスト伯爵ではない。よほどポーラの言いようが腹に据えかねているのだろう。
「姉上さま、いえ、公爵閣下、あなたさまと私は主従契約を結んでいるわけではありません、よって、この場から去ることに同意しなくても何も恥じることはありません、そうですね」
「誰か、そなたに従えと?余は幼女など帯同させつもりはない、さ。ドゴール伯、参れ」
ポーラは当てつけるようにして40歳の新伯爵に命じた。
マリーは、姉が姿を消すと、すぐに剣に触れようとした。
とたんに剣が消えた。
気が付くと、太后が手にしているではないか。それほど大きな瘴気を感知したわけではない。一瞬で顕現させ、そして次の瞬間に消滅させたのだ。よほど強力な魔法の使い手ではなくてはできない技だ。さすがは姉上さまの母上と表現するのは、実は逆なのかもしれない。
「母上さま・・・・」
太后は周囲の者たちに下がるように命じ、それが実行されるまで待った。一人残らずいなくなったことを確認するなり言った。
「マリー、これから母は酷な質問をする・・・・。よいか」
少女の言葉を待つことなく太后は続けた。
「私か、ポーラか、どちらかを選びなさい」
「は、母上さまはひどい・・」
「すまない。しかし言わずはいられなかったのだ」
少女は母が公爵のことをポーラと呼んだことに気づいていない。
「マリー、私がどうしてナポレオン法典なぞを持ち出してまであの子を戦場から下がらせたいと思ったかわかるか?女性趣味などと、流行りの薄っぺらい趣味を言い出したのかわかるか?」
太后はマリーに言葉を期待していない。その証拠に言った。
「我が子を少しでも危険から遠ざけたいからだ。それは親だから、という理由ではない。私には政治を見る目がある。それはそなたも知るところだろう。認めたくはない。そなたの前で言うのはこれもまた酷だとわかっていていうが、時代の趨勢はもはやモンタニアール家にある。あれこそが王家なのだ。実はルイ殿下がこられると聞いて私は喜んだ。あの子もやっと決断したのかと・・・」
「和平をですか?」
「しかし天使さまが自ら世俗に口を出されるなどと・・・・そうなっては私は何もできない・・・できなくなってしまった」
「は、母上さま、どうして姉上さまに今のお姿をお見せにならないのですか?」
やっとのことで思いを口にできた。
「そんなことはできぬ。それはそなたならわかるはずだろう・・・・・わかるな、他言は無用だ」
「母上さまは残酷です・・・」
そなたは我が娘ゆえ、という言葉が隠されている。それがわかるからこそ、マリーは反論できなかった。そして、それゆえの言葉だった。
そのとき、ポーラは私室にてアニエスと対面していた。
「そなた、どうして余が竜騎士にならなかったわかるか?アニエス」
「それを臣の口に言わせるのですか?殿様」
「ああ、そうだ」
「契約にありましたか?」
「あった」
ご冗談をと、大剣の持ち主は思わず笑いたくなったが何とか押しとどめる。
「恐ろしくて言えませぬ。言ったところでわが命の保証はしていただけますか?」
「信用がないようだな?それほど私は信用のおけぬ主君か?」
「すでにそういう姿を晒しておいでです。私を父よりも甘いと考えられるならば、私の弟に継承させるべきでしょう。私は喜んで爵位を辞します」
「わかった、いいから」
「殿様は、太后さまのような魔法の使い手になりたかったのでしょう」
とたんに強烈な瘴気が室内に充満しはじめた。
「私の身の安全は保障していただけると、殿の口から聴きましたが?」
「それはそなたの身であって、アラス城の保全と何の関係もない」
アニエスはかぶりをふった。
「太后さまにこのようなお姿を見せつけたくないのですね、私にも覚えがあります」
みしみしと城が揺らぐ。
アニエスは冷静だ。これが大人の女かと、少女は内心で褒めたたえたくなった。マリーの冷静沈着さとは一色も二色も違う。ここで感情を爆発させることにした。
「あれが人の親の態度か?そなたも子供がいるならばわかるであろう、そなたは我が子の前であのような態度をとれるのか?」
アニエスは、ここは黙って見守るべき立ち位置に自分がいると決めこんだ。




