太后アデライド2
マリーは焦っていた。太陽は傾きつつあるというのに、全く太后が彼女の意に首肯することはない。ワインに付随して出された珍しい氷菓子というものがルバイヤートに由来するものだと指摘されてもろくに反応できなかった。ありえないことだが、もしもポーラが同席していたら非難していたにちがいない。
単なる砂糖で固めたブドウの菓子だと思っていただけに、口の中がひどくひんやりとしたことに驚いた。しかも微かに知らない人間の瘴気を感じる。魔法を使って保存されたり冷凍されたりした食べ物はあまり好きではない。瘴気が残っているだけにあたかも人を食べているような気がするからだ。戦場においては贅沢は言っていられないものの、つかの間とはいえ平和にあってはまともな料理に舌鼓を打ちたいものだ。魔法で腐敗を防止するなどと、人間の自然に対する態度として失格だ。
それでも少女の味覚は菓子を美味だと見なしている。意識と五感の乖離に嫌になるがしょうがない。
どうやら、かなり精神的に追い詰められていたらしい。太后が指摘してかなり時間が経過していた。
彼女は確かにこう言ったのだ。
「これはルバイヤートから略奪したものらしいわ」
何と、これから干戈を交える相手ではないか。まさか我が娘が、戦うために海を越えて世界の外に向かうとは想像もしていないだろう。何とも言葉に対する反応が鈍いものか。呆れる。しかし何とか自動的に表面的にだけならば神経が反応しつつある。
「モンスターがつくったのですか?まさか、ありえないでしょう、これからは人が発する瘴気が感じられます」
我が意を得たという風に母上様は仰る。
「きっと虚報だわ。ルノーかしら、この手の菓子の産地といえば近場ではそれ以外に思い出せない。が、味わいが違う。これほどまろやかで甘味もなかった。きっと新種改良に成功したのだろう」
「品種改良に魔法が使われていないことを望むばかりですが・・・・」
「マリーは、強力な使い手なのに食べ物は別なのね、不思議なことだわ」
戦場で食べたことがある。確かに美味にはちがいない。しかしなかなか瘴気を発するものを食すことには慣れないということだ。誰も理解してくれないがまるで人肉を食している気分になる。
「そうね、モンスターが瘴気を発するのはおかしいこと。公爵様はそのようにみんなを担がれるのか、理由がわからない。モンスターとかかわっていることは、人間として恥ずべきことなのに・・・」
公爵様という物言いは気になるが、
太后の言葉は、世界のルバイヤートに対する意識をそのまま示している。それは世界の外にあり、かつては人間が住んでいたが今現在はモンスターが割拠する魔界に他ならない。
だからこそ、略奪という言い方で糊塗しなければ事実上の交易をすることができない。なお、この略奪によって得られる収益はポーラの想像をはるかに超えている。純益をポーラからマリーは聞かされて言葉を失ってしまった。ルバイヤートと関わることは自ずとリスクを覚悟しなければならない。だが、ひきかえに得られる利益は莫大で、あれほどの戦いを維持するだけの費用が賄えるわけだ。税率を操作する必要もなく、それが貴族ばかりか平民の指示にすら繋がっている。
このブドウの菓子は美味だ。瘴気から何を感じるだろう。作者の心細やかさが伝わってくる。人肉を食しているような不快感は少なくとも減退している。よほどの料理人に違いない。
「こういうものならば、魔法もいいかもしれません」
マリーの言葉に気をよくしたのか、太后は手を叩いた。
しかる後に入ってきたのはアニエスである。
マリーは、アニエスの腰にぶら下がっているものが気になることを避けられなかった。彼女は竜騎士としては過ぎるくらいに体型が華奢なので余計に目立つのだ。
「アニエス、やけに物々しいではありませんか」
マリーにとっても彼女はなじみの人物である。和やかに話しかけたいのは山々だが、抱えている問題が問題だけにうまくいかなかった。
太后は言った。
「まるで今さっき人を斬ったような顔ね、アニエス」
「太后様に仇為す者はだれであっても一刀両断にしてみせます」
母上さまはマリーをぞっとさせる言葉を仰った。
「もしも公爵閣下が相手ならば、どうかしら?アニエス」
「母上さま・・・・それは・・・」
すぐさま嘴を出したのは、アニエスを救うためだ。本当に意地の悪いことを言われる。アニエスへの言葉も、真意は姉上さまへの非難なのだろう。
このような優しいお方をここまでにしてしまったのは、姉上さまの罪なのだろうか。
母上さまと接していると思ってしまうが、逆ならば逆の感想を持つに決まっているのだ。ここは冷静になるべきだ。ここで路を違えてしまえば、おそらく双方が和解することは永遠になくなるだろう。それは両者をこの世で最も重要視するマリーからすれば、心を真っ二つにされる思いがする。
アニエスが佩いている大剣は公爵家に代々、伝わる宝物である。彼女がそれを拝領したのは、受け継ぐべきポーラが竜騎士ではないゆえに「無用」の一言で済ませた経緯がある。
「竜騎士も使い手も能力の根源は同根、ゆえに杖や剣の上下を要求するのは二流」というのが姉上さま一流の現実主義である。むろん、アニエスの前でそんなことは言わない。情動的にそちらに向かう人間はそいつの自由に向かわせておけばいい。
出された料理に手を付ける。触れる前に瘴気を感じさせないことに、思わずマリーは微笑んだ。鹿肉は彼女の好物である。触れた感じで焼き加減が自ずとわかるものだ。
「公爵閣下は、食事の際に魔法を使われるのよ」
確かに食卓を共にして不快になることがある。焼き加減が気に入らないと魔法を使いだされるのは確かに迷惑だ。人が食事をしているというのにろくに瘴気を隠そうともしない。
だが、そのことよりも姉上さまと対面してそのようにお呼びすることの方が心配だ。今のままでは間違いなく現実化してしまうだろう。どうにかしてそれを阻止せねばならない。しかしそんなことが可能なのか。
物思いのために肉の味も減退する。しかし手指に広がる肉の感覚は変わらない。魔法を使って焼き切るなどと文明人のすることではない。正しくは爪に首尾よく引っ掛けて指の力で引きちぎるのだ。
食事の席にはアニエスも同席している。何かがあったときに肉で剣が滑りかねないと断ったのだが、無理に太后が勧めた。それでは彼女としても断り切れない。
「アニエスが狩ったのよね、本当に素晴らしい鹿だわ。けれど・・・狩りぐらいならばいいけど、女子が戦場に赴くなどとこれからはあってはならないことだわ。そうは思わない、………あ、マリー、そなたに別に当てつけたい気持ちで言ったわけじゃないのよ。サンジュスト伯爵家には殿方がおられないもの、そなたが戦場に出ないわけには参りません・・・」
太后は一時的に言葉を止めると、気まずそうな視線を送ってきた。もしも太后以外がその種の視線を向けてきたら、まちがいなく侮辱と受け取っただろう。しかしこのお方は違う。心からマリーのことを思っているのだ。ちょうど姉上様を思うとのは真逆のベクトルを向けておられる。しかし情愛の量としては変わらないのだ。ただ意地がベクトルを曲げているだけだ。思えばこのお方から情愛の在り方についてマリーは学んだ。しかしながらそれを修正する方法までは学んでいない。それは自分で考えなければならない。
太后の言うとおりに、伯爵家を継承するのにマリーを置いて他に誰もいない。年老いた叔父と病気がちな従兄弟がいるだけで、近頃、上流階級で流行りな女性趣味を持ってしても、彼女を戦場から追い出すことはできそうにない。実際にジョフロアという男子がいる公爵家とは状況が違う。しかしどうやら太妃は何か手段はないかとあれこれ画策しておられるようだ。そのこと自体はマリーにとっても心から嬉しい。しかし姉上さまが知ったらどれほど激怒されるかと思うとうかうかと口にできない。
そのことはさすがにマリーとしても話題に上らせたくない。これ以上、肉の味を減退させたくないが、どうして彼の顔が脳裏に浮かんできてしまう。剣の技量は少しでも伸びたのだろうか。思わずアニエス所有の大剣が目に飛び込んできた。
弟の奮起を期待したのだろうが、彼の性格を考えれば姉上さまの発言は慎重が足りなかったであろう。血筋からいえば彼が継承すべきだったのだ。
マリーは自分の想像力をこそ呪うべきだった。この場にジョフロアがいなくても、思い浮かべるだけで肉の味がさらに消えていく。温度まで下がってしまえばもはや何も言い加える必要はないだろう。
竜騎士と魔法の使い手の能力は血の尊さに比例する。しかしながら例外も存在する、とはよく言われたことだが、それは何も身分の低い人間に王族並みの能力が顕現することだけを意味しない。その逆も十分にありうる。その典型がジョフロアだった。
前公爵と比較すればだれの目にも明らかだが、実際に実母にそっくりな容貌を備えるポーラと違って、ジョフロアは明らかに公爵家の血を色濃く示す外見を誇っている。それにも関わらずと・・・本人は忸怩たる思いなのだろう。何しろ、竜騎士ではないポーラに剣で叶わない。それどころか、治療属性であるマリーが相手でも剣を構えていられないとあっては、もはや戦場に連れていかれない有様だ。彼の性格からしても、ポーラの支配下に甘んじていられることは不可能だろう。気概だけは一人前なのだ。逆に言えばそれだからこそ不幸ともいえる。
母親である太后は「何も王や公爵が戦争の最前線に立っている必要はないのです。我が公爵家には優れた将帥がいくらでもおります」と素知らぬ顔で嘯くが、そのじつ、何を感がえておられるのかわからない部分は多い。何と言ってもマリーの倍以上を生きているのだ。わかる方がおかしいだろう。
長幼の序を重視する姿勢はサンジュスト伯爵家においても変わらない・・というか、彼女はほとんど公爵家で育ったと言っても過言ではない。
姉上さまがこの家において浮いた存在になってしまったのは、彼女の能力とは別のところにも理由がある。しかしそのことは今は考えるべき状況にない。願うならば生命が終わるまで結論を求めることがないようになってほしい。触れるにはあまりにも恐ろしすぎる。
マリーは、自分の思考があちらこちらに飛び散らせていた。うまくまとまらない。母上さまから一切瘴気は感じられないというのに、あたかも魔力によって恍惚とさせられているような気がする。字義通りの魔法とは違うのだろう。アラス城はマリーにとって居心地が良すぎる。危うく本来の責務を忘れるところであった。時間は無限ではないのだ。太陽の位置は明らかに変化している。
最後の肉は何故か苦みがあった。
マリーは時間が過ぎていくのを苦い思いで眺めているばかりではない。何としても目的を達成させねばならない。
肉汁で汚れた手を洗おうとしたときのことだ。
少女は衝撃に全身を震わせた。
「姉上さま?!こんなにお早く…」
彼女とは裏腹に冷たい声が響く。
「公爵閣下ね、凱旋の用意もできていないのだけど」
「は、母上さま、お願いですから、ポーラとお呼びください…」
すでに太妃の視線はマリーを通り越していた。すでに母と娘は干戈を交えているのだ。僻み目であることをわかっているが、如実に血の繋がりが薄いことを感じて哀しくなる。姉上さまは瘴気を隠していない。それはそうだろう。自分の居城に帰るのに誰がそんなことをするだろう。しかもすでに戦時ではないのだ。
マリーとしては、こうなってしまえばすべきことは1つだ。自分が先に姉上さまに会うことだ。だから黙って立ち上がった。
「マリー、落ち着きなさい」
それはあたかも自身に向かって言っているようだった。
しかしむざむざと従ってはおれぬ。
「私が、姉上さまをお迎えします」
アニエスが何かを察したのか言った。
「マリーさま、ここは私にお任せください」
安心したわけではないが、なんとか立ち上がって部屋を後にしようとしたところで外の騒ぎを聞き付けた。どうやら侍女たちが右往左往しているらしい。複数の瘴気が入り乱れている。そこに姉上さまが単刀直入に流れてきた。
まだ早い。
侍女たちは、突如として侵入してきた巨大な力によって自分たちの任務が果たせないことが不満らしい。
「愚かなことを言うでない。娘が母親に会うのに仕来りも何もあるわけでもない。控えよ」
姉上さまのお声だ。
マリーは我が耳を疑った。太妃を母と呼ぶなどと錯覚ではないのか。以前にそれを聴いたのは変声期の前だ。
今度は我が目を疑うはめとなった。
一瞬、何者が入室したのかと思った。しかし紛れもなく瘴気は姉上さまを指している。
「姉上さま…そのお姿は…?!」
何と、最近、流行りの女性趣味に身を包んでいる。コルセットは腰を締め上げフンワリと長いスカート床を埋め上げる。露出度の高い胸元はかつて「まるで売春婦だな」と姉上さまに吐き捨てられ、
かつて「あんな格好で戦えるか?!」と姉上さまに唾棄された格好だ。
おそらくは瘴気を殺して入城し、いつのまにか衣装替えをしてまかり出てきたにちがいない。準備だけで優に1時間は必要だろう。それを考えればいったいどれほどの特急だったというのか。脱落した連中もいたに違いない。
しかし姉上さまの息は全く乱れていない。魔法の使い手なのに竜騎士のような身体の引き締まりようだ。改めて思った。この人は戦うために生まれてきたのだ。
そんな姉上さまのお口から信じられない言葉が羅列する。
「母上さま、あいにくとナント王を打ち破り王都ナルヴォンヌを占領して、凱旋というわけには参りません。しかしながらお約束なれば杖を置く覚悟を決めました」
「あ、姉上さま、何をおっしゃるのですか?」
この人から戦いを奪うのは鳥から翼を奪うも同然だ。
母上さまはどうか?本気でお信じになるのか?
はたして、彼女は目を背けていた。
「そんなことを本気で信じろというのか?これまでのそなたの不実を簡単に忘れられると?」
「母上さまと私はお約束しました。今回の戦を最後にすると、そのために準備を万端にしたのです」
「急に戻ってくると聞いて、わざと勝利を逃したのだと疑ったのだ」
それはさすがにまずいとマリーは心配したが、姉上さまは微笑を浮かべたまま表情を変えない。身体のあらゆるところに施された宝石が煌めく。「あんなものは売春婦が好んでつけるものだ」と普段から姉上さまは一顧だになされなかった。涙ぐましくはある。しかし騙されてはならない。きっと何か裏がある。何を企んでおられるのだ。




