太后アデライード
ポーラが竜上の人になった、ちょうど同じころ、サンジュスト伯爵マリーはアラスに到着していた。すでに彼女の瘴気を感じ取っていたアデライード太后はわざわざ城門の外に出でて少女を迎えようとしていたのである。実の娘に対してであっても、彼女の重い身分からすれば憚られる行為である。太后に近侍しているドゴールの娘は諫めたのだが、頑として聞かなかった。
「アニエス、私は自分の娘を迎えるのです。誰に気兼ねする必要があるというのか」
彼女はドゴールの娘なればすでに四十を越えている。しかし顔に走るほうれい線や目じりの皺は、見る人に年齢よりも知性を感じさせずにはおかない。
公爵のことが気掛かりだった。幼いころは養育係の長として仕えた。為人は自分の腹を痛めて生んだ娘よりも知っているつもりである。実母であるアデライード太后について本当はどう思っているのか。希望的観測を否定しきれないが、思うところはある。
太后がいかにマリーを遇したのか。
そのことはすぐに公爵の耳に入るだろう。問題はありありなのだ。
あえて計算の上でやっておられるのだから、太后も人が悪い。というかいかに人品が素晴らしい人であっても、こと肉親が話題となればここまで愚かしくなるものか。かえって人間らしくて好感が持てないわけでもないが・・・しかしそんなことは言っていられない。アニエスにとっての好感など、結果としてどうでもいいのだ。ロベスピエール公爵家というこの地域における名門の浮沈にかかわるのだ。太后はナポレオン法典を発動させるという。
しかしながら正気なのか。
数次にわたるこれまでのナント王との戦いにおいて早くも先代の功績に達した。殖産興業を新しく起こし収入を加算した、そして、即位以前はルバイヤートと係ること自体を忌避していたというのに、いざ公爵になってみれば先代からのやり方を継承しルバイヤート略奪も推し進めた。それが即位以来わずかここ五年間の出来事だ。確かにナント王への敵愾心が勝るあまり前のめりだという指摘もあるが、それでも公爵家一族、貴族から平民までポーラへの信頼は力強い。
心配するアニエスの前で太后は竜から降りたばかりのマリーを抱擁にしにかかった。
「マリー、よく無事に帰ってきました。母は出陣の度にそなたの健康を願ってやまないのですよ、とんだ親不孝者ですね」
主が命じられた関係によれば、伯母と姪の関係である。それを公的な場所で破る。寵愛の度合いを示すものだが、太后とはいえ、それは憚られるべきことだ。
マリーは自分の心が身体からあふれ出ることを必死に抑えていた。本当のところを言えば心から嬉しい。幼い日に両親を失った彼女はアデライードに育てられた。だから、今ここでサンジュスト伯爵としての公的な立場に自分を縛り付けなければならない。そのことに忸怩たる思いがあるのだ。そして、姉であるポーラに深く嫉妬している。どうしてこのお方を母と呼ばないのか。いかなる未来構想があって、下らない思いに拘泥しているのか。
「伯母上さま、お話があります」
ふと高位聖職者の瘴気を感じた少女は言いなおした。
アデライードもそれを察したからこそマリーの態度を受け入れる。
「お話があります。あともう少しで、あね・・・・ポーラがお帰りになります」
事ここに至っても、ポーラを姉と呼びそうになった。そのことを太后はどのように受け受け取るおつもりか。まったく反応がない。わかっていたことだが、ダイヤモンドでつくった壁よりも強固そうだ。
マリーの意を察したのか、太后は言った。
「こちらへ来なさい。アニエスも・・・」
それは数いる侍女たちの中でアニエスだけが伺候を許されるということだった。
しかし彼女も部屋の前で待たねばならなかった。竜騎士らしく大剣を佩いで待つ。そのことに忸怩たる思いはない。ただ平穏のうちに問題が解決することをのみを望むだけだ。
マリーが招じ入れられた部屋には思い出がある。幼いころ、両親を失った彼女がまず最初に連れてこられた場所だ。連れてこられた幼い子供は恐ろしいまでに冷静沈着だったという。しかしポーラと出会ったとたんにしくしくと泣き出した。そして当時公爵夫人だったアデライードの顔をみたとたんに我慢しきれなくなったのか、号泣し始めたらしい。
当時のことはうろ覚えである。ただ雪に覆われたアラス城がやけに美しかったことだけが目に焼き付いている。
部屋に入ったとたんにマリーはそのことに言及した。
「とても懐かしいです。お母上さま」
誰に気兼ねすることなく、そう呼べる幸福を少女は味わっていた。しかしながら味わいしつくすことはできない。自分はあくまでもサンジュスト伯爵としてやってきたのだ。その責務を果たさねばならない。少女はいきなり核心に入った。
「姉上さまにお会いしたら、公爵殿とはお呼びしないでほしいのです」
アデライードは背中を見せた。
マリーは思った。
母上さまは素顔を見せたくないのだ。
しかし事実はそうではなかった。
振り返った太后の美貌は怒りで常軌を逸していた。このような母上さまは怖いが、そういう自分を見せてくれる立場にあることに素直に感謝したい気持ちもある。
まるで目の前に姉上さまがいらっしゃるように太妃は叫ぶ。
「あの子は母親を太后さまと呼ぶのよ!あれは何?どういうつもりかしら?!信じられないわ!!」
すでに太妃という仮面は脱がれてしまった。
心なしか彼女の身体が光っている。いや、そうではない。じっさいに魔法が発動しようとしているのだ。このままでは床や壁や柱にヒビが入るだろう。何と言ってもあの姉上さまの二親等でいらっしゃる。例外はあるが、竜騎士や魔法の使い手の能力は血の高貴さに正比例する。
マリーは、今の姿を姉上さまに見せつけてほしいと思った。そうすればきっと事態はいい方向にすすむ。互いにどうしてくだらない意地を張っておられるのか。しかし両者が相対すれば互いに仮面をかぶりあうのだ。目に見えた結論だ。どちらかに先に仮面を外してもらわねば困る。伝統的に公爵家は長幼の序を大事にする。常識的に考えれば姉上さまが譲歩すべきだろう。
けれどもマリーは、ふたりの関係をまざまざと見せつけられてきた。そういう立場からすればそうも言えない気がするのだ。
自分の本当の姿を露わにしすぎたことに気づいた太妃は、顔を背けた。
横顔は非常に鋭利だ。天使さまは、顔のみならず身体のあらゆるところが尖っている。それとは違った意味で宝石の破片なのだ。お二人は本当に似ていらっしゃる。その血は自分の身体にも流れている。マリーの母親は太妃の妹なのだから当たり前のことだ。
格子窓から見える空に太陽のありかを確認する。距離的に考えて姉が帰宅するにはまだ時間がある。だが、だからといってぐずぐずはしていられない。ここであの話題を出すことには迷いはあるが、黙っていられない。
「母上さま、もしも姉上さまが誓いをお破りになったら、本当にナポレオン法典を適用なさるおつもりですか?」
いつもの太后の顔に戻った。しかし安心はしていられない。普段は冷静なものの考え方ができる人だ。というよりかは、マリーの手本は常に彼女だった。
「我らが公爵閣下がお約束を破るなどと、とうてい考えられないことです。あら、そうですね、マリーはあの方の家臣ではあらしゃいませんでしたわ」
公爵閣下という言い方に嫌味のすべてを使い果たしている。あたかも姉上がこの場にいるような言い方だ。それに太后の実家で使われている方言まで出してきた。本気で怒っていらっしゃる。しかしこれが実の娘が不実への態度なのだ。そう思うと嫉妬の心が抑えきれなくなる。
まずいと思った。
母上さまは、マリーの手にかかるような相手ではない。すでに心は読まれているだろう。
「マリー、あなたも母に同感してくれるようですね」
しかし意図的に歪んで理解しているのがわかる。こんなとき、自分はどうしたらいいのだろう。
「ですから、姉上さまをポーラをお呼びください・・お願いですから・・・」
「本当に公爵さまは人の心をおわかりでない。あなたにこんな表情をさせるなどと、誓いには関係なしに法典を実行するしかないでしょう」
高等法院は何とかなるだろう。院長が太妃と懇意だということは知っている。マリーも知らない人ではない。ならば三部会はどうか。平民たちは姉上様の戦果に喝采を挙げている。しかし性急する改革に失った財産に涙する者はいるだろう。マリーは太妃の政治力を知っていた。
いつのまにか少女は太妃視点で物事を見ていた。
それにしてもナポレオン・ポナパルドとは一体何者なのか。伝承からすると、とうてい平民とは思えない働きぶりだ。当時のロペスピエール公爵、フィリップが軟弱だったことも併せて伝わっている。ナント王と感化を交えるところか、周囲に敵を作ってまさに四面楚歌の状態だった。竜騎士団すらままならず、法典を飲むことと引き換えに動いた始末だ。しかし貴族である竜騎士団がどうして三部会の意に同意したのだろう。姉上さまは、当時の情勢ならばやむをえなかったと、まるで見てきたように言うが、マリーはそうは思わない。
歴史学の最高権威を世界中から集めたところでまともな解答は期待できない。未来永劫、無理かもしれない。
今は歴史を紐解いてい場合ではない。目の前のことに集中すべきだ。どれほど二人とも沈黙していたのだろう。太陽はそれほど動いていない。しかしかなり長い時間、魂をどこかに飛ばしてたようなきがする。
姉上さまは一体、何を企んでいるのだろう。
きっと太妃を母と呼ぶことはあるまい。だが、それでは二人の関係は修復のしようがないだろう。勝負は今回に限っては最初からわかっている。
何と言っても姉上さまには天使さまがついていらっしゃる。
これは絶対だ。太妃といえども身動きが取れまい。天使さまはおふたりの間に交わされて誓いを知った上であのような命令を下されたのだ、もっともエイラート奪回などという重大な命令がリケルさまお一人の考えでどうにかなるわけもないが。
仮に天使さまが太妃の側に立ったとしても、姉上さまは戦うために大海を渡られる運命にあるだろう。
姉上さまにしてもそれをわかっているはず。しかしどうして無意味な意地を張るのか。たった一言
「母上さま」とお呼びになればすべては解決する…はずもないが、少なくともその取っ掛かりになるはずである。が、実際に姉上さまの口がそのように言う有様をマリーは想像しかねるのだ。




