六人目
「いらっしゃいませ」
戸を開けたのは、ボロボロの服を絵の具で汚した女の子。適当に切られた髪は節操もなく跳ね回り、見るからにやせ細った体は全体的に薄汚れ、顔には暗い影を落としたみすぼらしい少女である。しかし店主は顔色を変えることもなく煙管の火を落とし、にこりと笑って席を立つ。
「何かお求めですか?」
「…………」
少女は答えない。黒ずんだ指を胸の前に絡ませると、背負っていた絵の具だらけの鞄を床に置き、どこかうつろに冷めきったその目で店主を見つめる。店主は静かに目を細め、顎に指を添えてくっと笑った。
「どうぞ、お掛けになってください」
「ん……」
おずおずと、椅子に腰掛ける少女。店主はにこにこと微笑みながら濡らした布巾と小皿を並べ、棚に収められたお菓子の小袋を躊躇なく破いて皿に流し込んでゆく。少女はぎょっとして目を見開き、店主と皿とを交互に見やる。
「どうぞ」
「い、いいの?」
「えぇもちろん。遠慮なさらず召し上がってください」
店主が色とりどりのグミをひとつ摘んでそう言うと、少女は暗く落ち込んでいた表情をぱっと輝かせ、汚れた指を濡れた布巾でごしごしと擦ってお菓子に手を伸ばす。弾力のあるそれを二つ、三つと口に詰め込んで噛みほぐし、さり気なく置かれた水で流し込むと同時に、少女は涙をこぼした。
「……絵を、描かれるのですか?」
あっという間に真っ黒になった布巾を片付けながら、店主は微笑む。少女は身を強張らせ、伏せがちに頷いて鞄から筒状に丸めた絵を取り出した。
どこまでも続く水平線と、透き通る青空に流れ行く白雲。白レンガと赤屋根の並ぶ美しい街並みと、海に面した立派な港。水彩特有の柔らかな色がよく映えるそれは、街外れの峠から一望できるこの街の風景を描いたものである。
「まぁ。これはこれは、なんとまぁ。見事な作品ではありませんか」
おもむろに差し出されたそれを広げた店主は、ほうとため息を付いて微笑む。少女は一瞬驚いたように顔を上げ、嬉しいような、悲しいようなやるせない表情を浮かべてため息を付いた。
「……そんなこと、言ってくれたの、あなたが初めて」
「おや、そうなのですか。して、ご用件は?」
「うん……実は、これを買い取ってほしいの」
そう言って少女が机に置いたのは、鞄から取り出した画材道具。様々な色が染み付いた木製のパレットに、何本もの筆。色あせた絵の具箱。何年も使い込まれたであろうそれらには、彫り込んだ名前を削ったような跡が残されていた。
「手放してしまうのですか?大切なものなのでは」
「いいの。私はもう、描かないから」
「それはまた一体どうして?せっかく、こんなに素敵な絵を描かれるのに」
「……」
少女は静かに涙をこぼし、震える手で顔を拭う。
「私ね、小さい頃から、絵を描くのが好きだったの。いつか、美術館に飾られるような、そんな絵を描く画家になりたかったの。絵を売って、食べていこうと思ってたの。だけど、だけどね。誰も私の絵を見てくれなかった。誰も、私の絵を褒めてくれなかった。私の絵を買ってくれる人なんて、どこにもいなかったの」
「左様でございますか」
「もう、私には何もないの。ママが残してくれたお金、全部使っちゃったし、お家賃も払えなくなって、お宿も追い出されちゃったし……もう、明日のパンを買うお金もないの。それでも、もしかしたら誰かが買ってくれるかもって、描き続けてきたけど……そんな馬鹿な夢を見るのはもうおしまい。何もかも終わり。私には才能なんか無かったの。今まで描いてきた絵も、それ以外は全部捨てたわ。なんかもう、嫌になっちゃった」
「……ですが、これは」
「あ、うん。分かってる。そんなボロボロの道具、売り物になんかならないよね。だったらもう、お金はいらないから。その絵も、一緒に引き取ってくれない?多分、薪くらいにはなると思うから……」
ふむと頬に手を当てる店主。少女は涙をこらえて奥歯を噛み、ふらりと席を立つ。
「ゴミ押し付けるようなことして、ごめんなさい。それじゃ、その」
「もう行かれるので?」
「うん。私の絵……褒めてくれて、ありがとう。とっても、嬉しかった。です。それじゃ、さよなら」
店主が戸を開けると、少女はぺこりと頭を下げて足早に駆けてゆく。店主は遠ざかるその背をじっと見つめ、くすりと笑って戸を閉めた。
――――その後、店主によってオークションに出品された彼女の絵は多くの絵画好きの目に止まり、現在は作者不明の名画として美術館の一角に飾られているという。
お題:「夢」を売りに来た「少女」