四人目
それは、つぶてのような雨が窓を叩く夜更け。
退屈げに煙を吹かし、何袋目かも分からぬお菓子をつまんでいた店主は、ふと何者かの気配を感じ取る。叩きつけるような雨の夜に、わざわざ雑貨屋を訪れる人間はまず居ない。店主は肩をすくめて机を片付け、煙管の火を落として戸を開ける。
「いらっしゃいませ」
「おう」
そこに居たのは、ドアの横幅ほどもあろうかという一匹の蟹。
街外れの港で水揚げされることのある大型の蟹だ。市場では高値で取引され、この街では古くから親しまれている立派な高級食材。特に成熟した個体から採れるカニミソは絶品と評判であるが、店を訪れた以上は客である。
「どうぞ中へ。ただいま、海水をお持ち致しますね」
「助かる。真水だらけで苦しくてたまらん」
鮮やかな甲羅を背負い、長い足と立派なハサミを持つ客はのそのそと店内へ足を踏み入れ、突き出た目を揺らす。すぐに店の奥から水入りのタライを持ってきた店主はそれを机の上に置き、客を抱いてその中へと移した。
「いやはや、ようこそおいでくださいました。このようなところまで、大変だったでしょうに」
「あぁ、日照りじゃ無理だったろうな。しかしまぁ、この雨のおかげでニンゲンには会わずに来れたが、水から這い上がるのがどうにも難しくてよ。流れが早いのなんのって……全然進めやしねぇのさ」
「お察し致します」
「それより、だ。何でも売ってくれる『ザッカヤ』っつーのは、あんたのことだろ?」
「はい、当店は古今東西津々浦々、ありふれた雑貨から二つと無い珍品まで幅広く取り揃えております。何かお求めですか?」
「あぁ。売って欲しい、っつーか、詳しく教えて欲しいモンがあるんだ。っと、そうそう。こいつを出すのが決まりだっけな」
そういうと客は甲羅の隙間からコインらしきものを引っ張り出し、そっと机に置く。
「――『ミソ』あるかい?」
その言葉に、店主はふふっと笑う。そしておもむろに傍らの棚から小さな壺を手に取り、机に置いた。
「お味噌でしたら、こちらに。しかし、何故?」
「ニンゲンどもが、よ。岸辺で毎日話してやがるんだ。やっぱりミソが最高だの、ミソがたまらなく美味いだの、何だのって……連中の味覚は分からねぇが、そんなに美味いもんなのかと海の仲間に聞いても、聞いたことはあるがそれが何かはよく知らねぇって言うんだ」
「はあ」
「俺はもうじき死ぬ。寿命ってやつだ。特に思い残すこともねぇが、どうせ死ぬなら最期に『ミソ』ってのが何なのかを知りたくてな。動けるうちに聞きに来たってわけよ。こいつがそうなのか?」
「はい。こちら、お味噌でございます。豆の……はい、料理などに用いる調味料ですね」
店主が蓋を開けると、独特な匂いがふわりと広がった。客はキシと顎を擦り、しきりに触覚を動かす。
「チョーミリョーか。俺にはよく分からんが、聞いたことはある。食ってみてもいいか」
「えぇ、どうぞ」
客は壺の中に眠るこげ茶色のペーストを覗き込み、大きなハサミの先端でそれをすくって口に運ぶ。客にとっては未知の食感とも言える滑らかなそれは、しばしの沈黙を産んだ。
「いかがでしょうか」
「……ん。これが、美味いものなのか?よく分からん。なんというか、食った気がしねぇな。やはり俺には、ニンゲンの味覚とやらは理解出来んようだ。残念ではあるが、まぁ、いいだろう。気は済んだ。俺は海に帰る」
「左様でございますか。では失礼をば」
店主は再び客を抱いて床に離し、戸をあける。
「それじゃあな。もう会うこともないだろうが、海に帰ったら皆にこの話を伝えるよ」
「はい。どうかお元気で」
店主が微笑んで見送る中、客はハサミを振り動かしながらのそのそと濡れた街路を歩いてゆく。店主がくすくすと笑いながら戸を閉めると、ちょうどそこに何者かが通りかかった。
「いやぁ、それにしてもひどい雨だ。これじゃ船も出せねぇや」
「蟹の一匹でもいれば、ミソで一杯やれるんだがな」
お題:「ミソ」を買いに来た「蟹」