6・母の思いやりと幼馴染の思いやり
平日の早朝。
龍一が両親と朝食を取っていると二階から早足で降りて来た姉の虎子が何も言わずにリビングを横切り玄関に向かった。
母がおはようの挨拶を掛けたが姉はそれすら無視して家を出て行った。
今日は平日だしスーツを着ていたから出社したのだろう。
姉の様子からして、まだ昨日のことを怒っているようだった。
当然だ。
一日で忘れろってのが無理がある。
食事を終えた父が席を立つとネクタイを締めながら息子に言った。
「龍一、虎子が帰ったら、もう一度謝っておけ」
ドスの利いた声は、まるで脅しのような響きで聞こえた。
食事の箸を止めた龍一が、俯き加減で「うん……」と答える。
父に言われるまでもなかった。
龍一も朝一で姉に再び謝る積もりだった。
だが姉の虎子は避けるように家を出て行ったのである。
龍一の心は罪悪感をチクチクと感じていた。
やがて強面の父も会社に出社するために玄関を出て行く。
それを母が家の外まで見送った。
父と母は仲が良い。
結婚して二十年が過ぎたが、新婚気取りで腕を組み寄り添っているシーンをちょくちょく見る。
近所でも評判なぐらいの鴛鴦夫婦だ。
まさに美女と野獣というか、美女と極道である。
「ごちそうさま」
龍一も食事を終えて席を立つ。
そろそろ学校に行く時間だ。
一度二階の自室に戻って鞄を取ってから玄関を目指した。
龍一が玄関で靴を履いていると母がいつものように弁当箱を持ってきてくれた。
「はい、お弁当」
「ありがとう、かあさん」
龍一が受け取った弁当箱を鞄に入れていると、更に母が何かを差し出す。
「龍~ちゃん、これで我慢してね……」
いつも微笑みを欠かさない母の顔が、眉毛だけをハの字に歪めていた。
母が差し出した物に龍一が視線を落とすと、それは二つ折りにされたレースのハンカチだった。
三角形に折られたレースのハンカチは、まるで女性用の下着にも見えた。
「かあさん……」
龍一が、こまったような顔で母を見る。
だが手は二つ折りのハンカチに伸びていた。
ガッシリと鷲掴む。
「かあさん……、ありがとう!」
龍一の眼に涙が滲む。
母のつかさは優しく微笑んでいた。
まさに女神である。
流石は奇跡の三十九歳である。
三角に折られたレースのハンカチをポケットにねじ込んだ龍一は、「かあさん、これを励みに今日も頑張るよ!」と心の中で感謝しながら家を出て行く。
憂鬱だった龍一の心が、大分癒やされた思いだった。
「おっはよー」
玄関を出ると家の前で月美が立っていた。
明るい挨拶が飛んで来る。
龍一が幼馴染みに「おはよう、月美」と挨拶を返すと二人は、駅のほうに並んで歩き出す。
学校に登校するさいに二人は、いつも駅前まで一緒に向う。
そこから月美は電車に乗って隣町にある女子高に向かい、龍一は入れ替わりで電車から降りて来る親友の卓巳と合流して一緒に学校に向うのである。
幼馴染と並んで登校。
通う学校は別々になってしまったが、この生活習慣は幼稚園のころから変わっていない。
龍一が隣を歩く月美をチラリと見た。
ボーイッシュな幼馴染みは健康的でスレンダーなスタイルが魅力的な女の子だ。
見事に女子高の可愛らしい制服を溌剌と着こなしている。
短いスカートが揺れるたびに昨日の晩のことを思い出す。
龍一がシマパンのことを思い出してにやついていると、いきなり月美が「ねぇ、龍~ちゃん」と話しかけて来た。
ドキリとした龍一が、必死に真顔を作ってから「なに?」と返す。
「流石は叔母さん。凄く龍~ちゃんの気持ちを理解しているわね」
「なにが?」
龍一が不思議そうに問うと、月美が龍一のポケットを「これよこれ」と言いながら突っついた。
そこにはレースのハンカチが入っている。
「見てたのかよ!?」
「玄関の隙間から見えたよ」
月美が揶揄する目つきで言う。
戸惑いながらも龍一は、玄関が開いていたのだろうかと疑問に思ったが、見られていたことには変わらないと肩を落とす。
また月美に恥ずかしいところを見られてしまったと情けなくなり憮然と沈む。
「龍~ちゃん、そんなにパンツが好きなの?」
「好きと言いますか……、なんと言いますか……」
気恥ずかしさに小さくなる龍一に対して月美が、何故か勝ち誇った口調で言う。
「まあ、龍~ちゃんも、年頃の男子だしねぇ。そういうのに興味を抱いても仕方ないか~」
「うるせ~よ……」
龍一が、不貞腐れるように口を尖らせる。
それが月美には可愛く見えたのか、今までと違う優しい表情に変わった。
「じゃあ~さ~、また今度、私が見せてあげようか?」
「マジ!?」
龍一が素早い動きで幼馴染みの顔を見ると、月美は逆のほうを向いて表情を隠してしまう。
しかし、ショートヘアーから覗く小さな耳が、真っ赤になっているのが見えた。
照れている。
確実に照れているのが分かった。
「た、たまにだったら……、いいよ」
「マジですか!?」
「マ、マジですよ……」
完璧に照れている。
だが、可愛い!
心の中で「よし!」と叫びながら龍一は両手で小さなガッツポーズを取っていた。
「その代わり、虎ね~ちゃんのパンツなんか、もう取っちゃ駄目なんだからね……」
そっぽを向いたままの月美の言葉は、なんとなく交換条件にも聞こえた。
しかし、そんなの龍一には関係なかった。
その程度の交換条件なら幾らでも飲める。
もう、ガブガブと飲める。
なんの問題もなく女の子のパンツが拝めるのだ。
歓喜な話である。
「わ、分かったよ、月美。もう虎ね~ちゃんのパンツには、手を出さない……」
龍一が常識的なことを誓う。
「見るのも駄目なんだからね」
「分かった、絶対に見ない……」
月美が上目使いで龍一を見ながら言う。
「例え脱衣所に落ちてても、見ちゃ駄目なんだよ」
「うん……、絶対に見ないってば」
少し考えてから答える龍一。
「洗濯場に乾してあっても見ちゃ駄目なんだぞ!」
「思わず目に入った……、とかも駄目?」
「絶対に、駄目!!」
月美の目が怒っている。
釘を刺す月美の声色には、嫉妬の色が窺えた。
「じゃあ……、どうしてもパンツが見たくなったら……?」
「幼馴染みなんだから私に言いなさいよ! ちょっとだけなら見せてあげるって言ってるでしょ! 龍~ちゃんが見ていいパンツは、私のパンツだけなんだからね!」
「月美、そんなに怒るなよ……」
ここまで興奮して怒る月美も珍しい。
でも、怒る姿も可愛かった。
「じゃあさ、月美」
「なによ?」
月美は少し冷静になってから返事を返した。
「今、ちょっとでいいから、ここでパンツを見せてよ?」
「!?」
驚きながら立ち止まる月美。
龍一のお願いに月美の顔が、下から上へと一瞬で赤くなって行く。
目が点となり頭のてっぺんから湯気を上げて固まっていた。
「駄目か、月美、パンツ!?」
力を込めて訊く龍一。
戸惑う月美。
小動物のような眼差しで懇願する幼馴染みの前で月美は長々と語りだした。
「ちょ、ちょっと、なに急に言ってるのよ。ここは外なのにさ。ちょっとだけならパンツぐらい見せてあげるけど、外は駄目よ。だって他の人に見られるし、幾らなんでもそれは恥ずかしいし。龍~ちゃんにパンツを見せるのだって本当は凄く恥ずかしいんだからね。それを、こんなところでパンツを見せろだなんてさ。駄目ってわけじゃないけれど、急すぎて心の準備がつかないよ。私だって女の子なんだよ。龍~ちゃんにパンツぐらい見られるのは我慢できるけど、他の人にパンツを見られるのは絶対に駄目なんだからね。そもそも龍~ちゃんは、パンツを見せるのがどれだけ恥ずかしいかわかってるの。私はパンツぐらいって言ってるけど、真に受けないでよね。本当はすっごく恥ずかしんだからね!」
──と、キンキンと声をあげながら、あたふたと両手をバタつかせていた。
照れる月美の様子も可愛くいつまでも眺めていたい。
しかし、パンツも見たい。
そのためか、ついつい急かす言葉を龍一が言ってしまった。
「月美、お願い、パンツを、パンツを見せてくれ!」
いっそう力が入っていた。
懇願する声も大きくなっている。
拝み倒すように頭を下げる龍一の眼前で、月美が赤面の色を更に濃くしてうろたえる。
頭の中が沸騰したのか耳から蒸気を噴出しそうであった。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと龍~ちゃん!?」
「頼む月美、パンツを、パ、ン、ツ、を、見せてくれ!!」
たたみ込むようにお願いする龍一も必死だった。
月美が気付く。
首を振って辺りを見回せば、数人の歩行者が二人を冷たい視線で見ていた。
いつの間にか二人は、駅に近い大通りまで出ていたのだ。
歩行者達の視線が月美に突き刺さる。
好奇心の眼差し、失笑を堪える眼差し、軽蔑の眼差し、様々な視線に月美が狼狽える。
離れた場所からこそこそと話す他高の女子生徒が、「あのカップル、朝からパンツパンツって馬鹿じゃないの」と話す声が微かに届く。
プルプルと震えだす月美。
赤い顔が限界まで赤くなる。
「りゅ、龍~ちゃんの馬鹿ーーー!!」
叫んだ月美が、拝みながら頭を下げている龍一の後頭部に平手を落としてバシンと叩いた。
そして大声で「わぁぁぁぁああああ」と泣きながら物凄いスピードで走り出す。
あっという間に月美の姿は駅のほうに消えて行った。
一人残された龍一も頭を上げてから辺りの様子に気付いて赤面した。
逃げるように、その場をあとにする。
龍一が駅前に到着すると、いつものように待ち合わせをしている卓巳が駆け寄って来た。
「おい、龍~……」
「お、おはよう、卓巳……」
卓巳の表情は険しかった。
「おはようじゃあねぇ~よ、龍~。さっき大声を上げながら月美ちゃんが走って行ったぞ。何かあったのか?」
「いや、ちょっとした喧嘩みたいなもんだよ……」
「喧嘩……、 大丈夫か?」
「大丈夫だと思う。悪いのはきっと俺だ。夜にでも月美に謝るよ……」
長身の親友は、金髪の短髪を掻きながら心配そうな表情で言う。
「そうしたほうがいいぞ、龍~。お前は女にモテない甲斐性無しだからよ、月美ちゃんに愛想を尽かされたら一生結婚すらできない童貞野朗で終わっちまうぞ。だから絶対に謝れよ、絶対だぞ」
揶揄されながら念には念を押される。
「親友とはいえ、凄い言いようだな。まあ、当たっているようなもんだが……」
「それはそうと、龍~。何にしていたんだよ、いつもの時間よりもかなり遅れて来やがって」
卓巳がスマホを取り出して時間を見せる。
確かに、かなり時間が過ぎていた。
「このままじゃあ遅刻だ。走るぞ!」
そう言うと卓巳が走り出した。
何をしていたかを明確に説明しずらかった龍一は、何も言い返さずに、走り出した親友の後を無言で追う。
学校には、ぎりぎりで間にあったが、これで今晩中に謝らなければならない女性が二人に増えたことになる。
姉の虎子と幼馴染みの月美にだ。
気が重くなるが、これもみな自分の責任だ。
頑張って謝罪しようと思う龍一であった。