40・追う者、追われる者
六時間目は英語の授業だった。
黒板を背にした中年男性の教師が教卓の前で教科書の英文を読み上げている。
しかし、その発音は教師であることを疑わしく思える程に下手だ。
カタカナを棒読みしている感じである。
英語の発音なら鹿沼翡翠のほうが上手いだろう。
彼女の成績は、どの科目もクラスでトップランクである。
ただし体育と美術は除いての話だ。
翡翠の運動神経はないに等しい。
兎に角、不器用である。
美術授業の油絵では、凄い自画像を描いていた。
ピカソもびっくりである。
パーフェクトな人間はいないという証明だろう。
男性教師の読み上げる下手な英語が静かに流れる教室内。
不意に鹿沼翡翠が振り返る。
隣の列、四席後方に座る政所龍一を見た。
「どうしたの?」
振り返った翡翠に後ろの席の女子が声をかけた。
突然振り向き何事かと思ったのだろう。
「ええと……、なんでもない。ごめんね」
「う、うん……?」
謝って前を向き直す翡翠に女子生徒が首を傾げる。
一体なんだったのだろうといった感じだった。
気になったので彼女も後ろを見る。
「あぁ~……」
見て直ぐに「なるほどな」っと思い呟いた。
翡翠が見たのは政所龍一だろうと理解した。
政所龍一は教科書で顔を隠していたが、周囲の空気を漆黒に澱ませていた。
理由は直ぐに察しがついた。
昼休みのあの一年生の女子が原因だろう。
とんでもない子に好かれたなと哀れんだ。
救いなのは容姿が可愛いことだけだ。
ご愁傷様と拝みながら前を向き直す女子生徒だった。
「何故、こんなことに……」
呟いた龍一は英語の教科書を睨みつけながら記憶を整理していた。
何故に、このようなことに成ったのか――。
何故、千葉寺カヲルに好かれることになったのか――。
記憶を整理して、対策を打たねばなるまい。
それにしても、あのジャイアントスパイダーズのリーダーである千葉寺カヲルが女の子だったとは思わなかった。
ましてや同じ学校の下級生だとは――。
ジャイアントスパイダーズのアジトでタイマンを張った時は、龍一よりも長身でボディービルダーのようにマッチョマンだった。
龍一は完全に千葉寺カヲルを男性だと思っていたのだ。
それが昼休みに表れた姿は身長百七十五センチの龍一より小さく、柔肌を連想させる美少女に成っていたのだ。
彼女の超能力は骨格肉体変化と聞いていたが、そこまで外見が変わるのかと驚く。
しかし、何よりも驚いたのは、自分を恋愛対象として異常なまでの好意を抱いていることであった。
廃工場で対決した筋肉ゴリラと、昼休みの突撃美少女が本当に同一人物ならば、彼女は『兄さん』に恋愛感情を抱いていた筈だ。
諦めきれない苦痛の想いを、龍一の超能力で生み出された心の具現化モンスターが暴露している。
あの対決から、まだ二日である。
いくらなんでも心変わりするには早すぎるだろう。
心の闇は叶わない願いに苦悩していた。
あの口調からして簡単に諦めきれるような恋愛感情には思えない。
だが、心変わりが現実。
今、彼女は龍一に恋愛感情を向けている。
何故――?
「罠か……」
ふと閃いた言葉を呟く龍一。
これは何かの罠ではないかと思った。
可能性はありうる。
何せ彼女に対しては、仲間たちの前でタイマンに勝利しているのだ。
平和ボケした一般高校生に負けるという恥じを掻かせている。
おそらくは異能者になって以来彼女は喧嘩で負けたことがないのだろう。
彼女の骨格肉体変化は喧嘩に有能である。
しかし龍一は、それを負かしたのだ。
恥じを掻かせたのだ。
怒りを買っても可笑しくない。
恋愛感情を抱かれるより、恨みや怒りを覚えるほうが普通だろう。
ならば今回の告白は、復讐を考えた策略……。
否、否――。
そう決めつけるのは愚考かもしれない。
可能性を思い込みだけで決めつけて対策を立てるのは不味い。
もしも彼女の告白が本当ならば、それはそれで対策が百八十度異なってくる。
それに千葉寺カヲルが龍一に好意を抱く可能性について心当たりもあった。
ファーストキッス――。
彼女は、そう言っていた。
あれはたまたまの事故であるが、二人の唇が重なり合ったのは事実。
だが、それだけで彼女の心が龍一に動いたとは思えない。
何か他にも決定打があったやもしれない。
思い出せ……。
何か忘れていることはないだろうか?
「あっ……」
思い出した――。
昼休みに彼女は、龍一が自分に告白してくれたと言っていた。
思い出した千葉寺カヲルの言葉。
『好きだって、告白してくれた日ですよ』
龍一には覚えがないが、確かに彼女はそう言っていた。
あの日となると、ジャイアントスパイダーズのアジトでタイマンを張った日だろう。
三日前の話だ。
あのようなドタバタしたなかで龍一が千葉寺カヲルに告白する訳がない。
しかもあの段階では彼女のことを筋肉達磨の怪物男だと思っていた。
女性だとは想像すらしていない。
だから有り得ないのだ。
「否否否、まてよ――」
そうだ――。
千葉寺カヲルに勝利する直前。
左のフックを顎先に決めて、彼女がよろめくと背後に回った。
振り向かせ二発目のストレートパンチを顎先に叩き込もうと、彼女に耳打ちした台詞があった。
あの時は「隙だらけだ」と、かっこつけた台詞を言おうとしたが、ミスった。
噛んでしまった。
そうだ、台詞を噛んだのだ……。
その台詞が「隙だらけだ」じゃなくて「好きだ」に聞こえていたとしたら……。
「まずぅ~い……」
実に不味い……。
その噛んだ台詞を彼女が告白だったと勘違いしていたら問題だ。
大問題である。
千葉寺カヲルの立場で考えてみる。
叶わない兄への想いに恋い焦がれる日々。
その時に喧嘩自慢の自分を打ち負かすほどの理想的強さを備えた異性が出現。
その異性は憧れの兄を摸倣した自分よりも強い存在であり、格闘の最中に「好きだ」なんて囁く好青年。
しかもファーストキスの相手。
一つ一つを総合的に整理した結果、出てくる答えは――。
ドラマチックな出会い!
異能者は異能者にしか恋しない。愛さない。
それもある。
「これは、不味いぞ……」
復讐劇よりも、こっちのほうがあり得る。
千葉寺カヲルが龍一に本気で恋している可能性が高い。
龍一が好きなのは幼馴染の月美だ。
この想いは本物である。
近いうちに告白するつもりでいる。
ここで千葉寺カヲルのような問題を抱え込む余裕はない。
「逃げなければ……」
彼女は今日の帰りに下駄箱前で待っていると言った。
そこで告白の返答を聞くと。
断れば良い。正直に断れば良い。
だが、彼女が龍一の回答を素直に聞くとは思えない。
僅かな時間しか接したことがない相手だが分かる。想像できる。
告白を断っても諦めるようなタイプでないだろう。
クラスの誰かが言ったように、ストーカーになるタイプだ。
それどころか龍一と月美の仲を邪魔してくるのは間違いないだろう。
本人も言っていたから怖い。
略奪愛を実戦するだろう。
恋愛サイコパスだ。
どう考えても逃げるしかない。
ならば、直ぐ行動。
「先生!」
手を上げながら龍一が起立する。
授業中に突然手を上げて立ち上がった男子生徒に英語教師は目を丸くしていた。
「ど、とうした政所……?」
「すみません先生。体の調子がやっぱり悪いので今日は早退させてください!」
龍一は元気良く言った。
体の調子が悪いとは思えないぐらい気合が入っていた。
既に六時間目。
この授業が最後の科目。
しかもあと十分程度で授業は終わる。
明らかに早退を願い出るタイミングは通り過ぎていた。
「お前、学校を舐めているのか?」
英語教師が凄んだ。
「いいえ、本気ですが!」
龍一が凄み返す。
遺伝子の奥底から這い上がってきた狂気が表情に浮かび上がる。
双眸が父譲りの鋭さを輝かせた。
千葉寺カヲルとの対決で見せたリュウジの顔だ。
「ああ、わ、分かった。今日は家に帰ってゆっくり休め……」
「ありがとうございます!」
生徒の凄みに押された教師が早退を許可すると、龍一は鞄を持って教室を出て行く。
殆どの生徒がポカンと口を開けていた。
「なるほど、今なら下駄箱で待ち伏せされずに済むか。考えやがったな」
親友を見送る卓巳が独り笑っていた。
龍一はまだ誰もいない下駄箱で靴を履き替えると校舎を飛び出して行った。
玄関から校門に向かう道を歩く龍一の姿は多くの教室から見えたのだろう。
暫くして校舎の方向からどよめきが聴こえてきた。
「なんだ?」
どよめきを聴いた龍一が振り返ると、信じられない光景が目に入る。
一つの教室の窓か開いていた。
二階の教室だった。
そのクラスの生徒たちが身を乗り出して下を見ている。
その視線の先には、一人の女子生徒がしゃがんでいた。
髪の毛がふわりと靡いている。
どうやら二階の窓から飛び降りて着地した瞬間のようだった。
「ま、まさか……」
二階の窓から飛び降りたのは、千葉寺カヲルである。
そして龍一めがけて真っ直ぐに走り出す。
「せんぱ~い。政所せんぱ~い」
笑顔で走ってくる千葉寺カヲルは、短距離走の選手を連想させる綺麗なモーションだった。
かなり速い。
どうやら下半身だけ骨格肉体変化で強化している様子だった。
「政所先輩、もう帰宅ですか~。一緒に帰りましょう~よ~」
「えぇ!」
気がつけば走り出していた。
龍一は全力疾走を始めていた。
三階の教室。卓巳が窓の外を眺めながら言う。
「龍一のやつ、おもろい妖怪に憑かれたな。笑えるぜ!」
追う者、追われる者は、多くの生徒たちに見送られながら下校して行く。
この日を境に暫くの間、学校内で二人の追いかけっこが見られるようになる。
二年の政所龍一が、一年生の美少女ストーカー千葉寺カヲルに狙われている。
この噂は鶴岡又吉の手により全校生徒から全教師までもが知ることとなった。
哀れな話である。
月美への告白も暫く延期となった。
二人の関係は、両想いのまま幼馴染として切なく続く。
物語も続く。




