30・大蜘蛛の乱(9)
廃車の如く車体がへこんだ族車に寄り掛かり座り込んだ龍一の右胸にはポッカリと穴が開いていた。
野球のボールぐらいの穴だった。
血は出ていない。
穴の奥は暗い。
まるで蛇の巣のようだった。
龍一の胸に開いた穴を見て、廃工場内がざわめいた。
「あれは流石にやばくないか……」
「ああ……」
顔を青くさせた平山の言葉に、大宮も同じように青ざめた顔で頷く。
普通の人間が喰らえば死んでも可笑しくない巨漢のタックルを正面から喰らい、車との間に挟まれたうえに、心臓がある側とは違うが、右胸の真上にポッカリと黒い穴が開いたのだ。
しかも拳がスッポリと入るサイズの穴である。
見ている者たちが動揺しても可笑しくないだろう。
タックルを決めた千葉寺カヲルですら困惑を隠せていない。
「うぅ……」
車に寄り掛かりながら地に尻を着ける龍一は、天を仰ぎながら苦しそうな声を漏らすばかりである。
ぐったりとしているが生きている様子だ。
「大丈夫、龍~ちゃん!」
泣きそうな声を上げながら月美が駆け寄った。流石に月美を止める者はいない。
戸惑いにざわめく大蜘蛛たち。
「やばいよな、こりゃあ……」
「ああ、ズラかったほうがよくね……?」
「死ぬかもよ、あいつ……」
「怖ぇ~こと言うなよ」
「大騒ぎになるぞ」
右胸に穴が開いているのだ。
今は生きているが時期に死ぬのではないかと考えている者が多い。
もしも龍一が死んでしまえば、それは立派な事件になる。
大事件だ。殺人事件になる。
頭の悪い不良たちにもことの重大性が理解でき始めていた。
その場にいる者たちが困惑していると、廃工場に新たな人物が登場する。
凛とした大人の女性の声。
自信と正義感が籠った美しくも凛々しい声だった。
「あんたたち、なにしているの!?」
教師が生徒を怒鳴るような高い声調であった。
大蜘蛛たちの視線が彼女の声に引かれて同じ方向を見る。
廃工場の入り口に女が立っていた。
スマートな女性であった。
長い髪を後頭部で纏めて団子を作っている。
グレイのレディーススーツに揃いのパンツ。豊満な胸元には地味なネクタイが挟まれていた。
一見キャリアウーマン風に見える知的な外見。
しかし眼差しを中心とした全体イメージに攻撃性が強く滲み出ていた。
異能者会の十勝夏子である。
その彼女の後ろに、もう一人男性がいた。
五十歳後半ぐらいだろうか。
鼈甲の眼鏡を掛けた中年である。
顔は四角く白髪の混じった髪を七三に分け、脇と後ろを若干刈り上げている。
釣りあがった太眉と『へ』の字の口元に寄り添うほうれい線が頑固そうな厳つさを醸し出していた。
腹は出ているが全身ガッチリした体格であった。
身形は高級そうなダブルのスーツにキッチリとしたネクタイ。革靴はエナメル製で、これも高価そうである。
同じく異能者会、朝富士陸男である。
二人に対して警戒心を向ける不良たち。
その時ジャイアントスパイダーズの一人が女性の姿を見て叫んだ。
「刑事だ。少年課の十勝だ!」
「十勝って、あのオッパイデカか!?」
「本当だ、デカ!」
「マジにデカなのにデカ!」
「うんだ、うんだ。デカデカだな!」
「馬鹿野朗。オッパイどころじゃねぇ~だろ。逃げろ!」
「ああ、そうだった逃げね~とパクられる!」
「皆、逃げろー!!」
「わぁ~~~!」
逃げろの言葉を切っ掛けに大蜘蛛たちが走り出した。
まさに蜘蛛の子を散らすような慌ただしさで逃げ出す。
車や単車で来ていた者たちがエンジンキーを回し爆音を呻らせると廃工場を飛び出して行く。
「畜生、どけ!」
「ちょっと、何するのよ!」
自分の愛車に寄り掛かる龍一を蹴飛ばした角刈り男が軋むドアを無理矢理開けて車に乗り込んだ。
月美の抗議は無視される。
やがて角刈り男の車も逃げる為に走り出す。
轟いていた爆音が遠ざかって行く。
騒がしかった廃工場内が静かになった。
廃工場内には排気ガスの悪臭だけが立ち籠っていた。
残ったのは倒れたままの龍一と寄り添う月美。
逃げなかった千葉寺カヲルに大宮と平山。
気を失ったままの高田。
それと何故かスキンヘッドも残っていた。
「やばくないのか?」
大宮の後ろに忍び寄ったスキンヘッドが耳打ちで問う。
その間も十勝刑事から視線を外さない。
このスキンヘッドの男、警戒心の強い人物のようだ。
「問題ない。あの刑事が来たのは別件だろう。きっとカヲルの能力について来たんだ」
「じゃあ、あいつがカヲルにつきまとっているっていう……」
「ああ、十勝夏子。少年課の刑事でありながら秘密結社の一員だ」
「秘密結社……。厨二の集まりか……」
大宮とスキンヘッドがこそこそと話ている隙に、新登場した二人が歩みを進める。
右胸にポッカリと穴を開けた龍一は月美に膝枕をしてもらい寝そべっていた。
龍一は朦朧状態だ。
時折「うーうー」と寝言のように声をもらし、その顔を月美が心配そうに覗きこんでいた。
千葉寺カヲルが、歩み寄る二人に向かって言う。
「十勝さん、何か用ですか。まさか僕を逮捕しに来たって訳でもないですよね」
「職務中ならば不良の喧嘩現場に出くわして見逃すことはできないけど、今は勤務外よ」
「じゃあ、いきなり逮捕は無いですね」
「ええ、無いわ。度が過ぎていなければね」
言いながら幼馴染に膝枕される少年をチラ見する女刑事。
少年の右胸に穴が開いていることには気付いていない。
そこまで現場の状況を把握してい。
一部始終を見ていた訳でも無いようだった。




