29・大蜘蛛の乱(8)
乾いた打撃音が突如響いた。
千葉寺カヲルが自分の大きな右拳を、自分の大きな左掌で包んでいる。
それが廃工場内に鳴り響いた激音の正体。
右拳を左掌に叩きつける音だけで龍一の独り言に集中していた全員の気を奪って集めたのだ。
「凄いね。珍しい話を聞かせてくれてありがとう。君の強さの理由も理解できた」
喋っている千葉寺カヲルの筋肉が僅かに膨らみ着ていた黒い革ジャンがギュッと音を鳴らす。
喧嘩の再開。
再び戦闘の香りが漂い始める。
「喧嘩に強い人がいる。何故強いか――」
今度は千葉寺カヲルの話が語り出す。
「根性のある人。体を鍛えた人。スポーツをやっている人。武術を習った人。産まれ持った巨漢の人。野性的本能に恵まれた人。天才な人。いろいろ居たよ。いろいろな人と喧嘩した。この四ヶ月ぐらいで三十人程度とタイマンを張ったよ」
四ヶ月とは千葉寺カヲルがパンドラ爺さんと行き当たった時からである。
「学生も社会人も居たよ。皆強かった。スリリングだった。彼らが繰り出す攻撃の一つ一つがスリル満点だったよ」
千葉寺カヲルがサングラスを取る。
眉毛が無く堀が深い。
その奥に勇ましい瞳が光っていた。
二重で釣り目。
総合して鋭さが際立っていた。
「分離脳患者が秘めた格闘センス。その神秘が僕に、どれ程のスリルをプレゼントしてくれるか、それが取っても楽しみでワクワクしてくるよ」
喋りながら姿勢が少し下がる。
戦闘態勢だ。
「さあ、続きを始めよう。タイマンの続きを!」
右拳を振り上げた。またもやテレホンパンチの構え。
振り上げられた拳を見て龍一も我に返った。
現在タイマン中だったのを思い出し両腕で構えを築く。
千葉寺カヲルが前に出た。
タイマン再開だ。
外野が沸き上がる。
「カヲル、いてもうたれっ!」
片足でソファーの背もたれを踏みつけるオールバック平山が声援を飛ばした。
その声援に応えて千葉寺カヲルが仕掛ける。
左足が龍一の前に大きく踏み込まれた。
「ふぬぅ!」
ゆっくりとした動きからの全力のパンチ。
龍一の体が右に僅かに動いて拳を躱す。
顔の直ぐ横を過ぎて行く拳の風圧が髪を揺らしながら音となって鼓膜に届いた。
相変わらず拳圧は強いが速度は遅い。
遅いが怖い。
当たれば必殺なのが分かる。
それでも喧嘩の速度に眼も心も慣れてきた龍一に、躱せない速度でなかった。
回避に続いての反撃。
右脳の選択肢に導かれ左半身が、次の行動を起こす。
「よっと!」
龍一の左足が千葉寺カヲルの踏み込んだ左足の膝上に乗る。
千葉寺カヲルの膝を踏み台に龍一の体が跳ね上がった。
左腕は肘を伸ばして腰の後方にある。
「あのままアッパーを打つ気か……」
呆然とした顔でオールバック平山が呟いた。
カンフー映画じゃあないのだ。
あまりにもアクロバティックすぎる攻撃だった。
喧嘩でもボクシングの試合でも見たことが無い。
だが、龍一の左脳はそれを狙っていた。
「これならどうだ!」
龍一の視点が千葉寺カヲルより上にあった。
本来ならボディーブローのスイングコース。
だが、高さは跳躍で調整されてアッパーカットコースだ。
「せぇぁぁああ!!」
「ぶッ!」
左のアッパーカットが千葉寺カヲルの顔面にヒットする。
鼻に直撃だった。
「たぁぁああ!!」
勢いそのみままに、振り切られる龍一の拳。
反動に龍一の体が宙を舞う。
顔面を殴られた千葉寺カヲルの背筋が大きく反った。
「どうだぁ!?」
効いている。そう思えた。
相手の膝を踏み台に駆け上がる力。
全身のバネを使った勢い。
高さも相手の長身と越えていた。
そこからの至近距離のアッパーカット。
命中したのは鼻頭。
それを総合点に、今まで揺らぎもしなかった巨人の姿勢が大きく崩れた。
「くぅぅ……」
このままい一気に!
そう考えた龍一の思いが一瞬で掻き消される。
飛んでいた龍一の身体が着地すると同時に、千葉寺カヲルの巨漢が突っ込んで来た。
体当たりだ。
着地を狙われ躱せない。
出来るのはガードのみ。
肩からの突進。
タックル。
轢かれた。
押される。
「にぃ!?」
驚きが思わず声に出てしまう。
両腕を盾に使いガードしたが、凄まじい衝撃に体ごと持っていかれた。
猛突進に押されて行く。
「にゃーーーぁぁぁあああああ!」
体当たりで轢かれたことによって「にぃ」の悲鳴が、「にゃーーーぁぁぁあああああ」に変わってしまっていた。
突き飛ばすタックルでなく、そのまま押し続ける相撲の押出しのようなタックルだった。
ボーリング玉のような肩筋に突き刺されるような襲撃。
押される龍一が押し走る千葉寺カヲルの体にしがみつく。
肩の筋肉で突き刺される龍一には見えなかったが、そのまま疾走する千葉寺カヲルは、仲間が観戦しながら並ぶ方向に突進して行った。
「うわ、こっち来たー!」
「逃げろ~」
「わ~」
楽しそうな悲鳴を上げて逃げるヤンキーたち。
逃げた人壁の向こうにはゴテゴテに改造された族車があった。
運転席側のドアに二人は突っ込んで行く。
そして激突。
衝突と同じに車体が大きく揺れた。まさに交通事故のようだった。
「ぐぇ!」
金属がへこむ大きな音。
ガラスが砕け散る粉砕音。
それらの破壊音が、龍一の喉から吐き出された苦声を掻き消す。
龍一の体が背中から車のドアに減り込んでいた。
運転席のドアは開閉不可能になるぐらい変形してガラスが砕け散っている。
あまりの衝撃にフロントガラスまでもが皹割れ亀裂が走っていた。
「龍~ちゃん!」
「俺の愛車が!」
月美が心配の声を上げている横で、角刈りの男が絶望の悲鳴を上げていた。
二人は幼馴染と愛車の粉砕にショックを受けている。
「ぐぅぅぅ……」
巨漢と族車の間に挟まれた龍一は、ぐったりとしてしまう。動かない。
千葉寺カヲルが体を離すと龍一の体が床に落ちた。
尻餅をついた龍一が、壊れたドアにもたれかかりながら上を向く。
苦しそうだ。
首が据わっていない。
歯茎を食いしばり、瞼を強くつぶりながら痛みに耐えている様子だった。
勝敗が決死られたと思える致命傷を受けている。
「勝負あったな」
言ったのは豹柄帽子の大宮であった。
他の者たちも彼と同じ意見である。
もう龍一は一人で動けないだろうと思う。
普通の人間が百二十キロを超えるプロレスラーや相撲取りに、手加減抜きの体当たりを打ち込まれれば、当然ながらただでは済まない。
その衝撃は全身鞭打ち症を相手に負わせるだろう。
死にはしなくても肋骨が数本折れても可笑しくない衝撃だ。
最低でも首の鞭打ち症は免れないだろう。
間違いなく病院送りだ。
骨格肉体変化の超能力で強化増幅された千葉寺カヲルの体重は脂肪が少なく筋肉だけで約百二十キロある。
そしてパワーは、へたなプロレスラーや相撲取りを余裕で凌駕していた。
そのパワーを龍一は全身で受けたのだ。
しかも衝撃を後方に逃がすこともできずに車を背にしている。
巨漢と車に挟まれたのだ。ダメージは倍増している。
大宮の予想では、肋骨が数本は折れて肺に何本か刺さっているだろうと思っていた。
「こりゃ~、さすがにやり過ぎたか。救急車を呼ばんといけないかもな」
もちろん救急車を呼ぶつもりはない。
大宮の予想が当たっていても仲間の車で病院の前に落として行くだけだ。
つき添わせる月美には脅しをかけて、階段から落ちたと言わせればよい。
「なに、これ……」
龍一から体を放した千葉寺カヲルが呟いた。
眼が驚き、呆然と龍一を見下ろしていた。
外野で見ていたスキンヘッドが寄り掛かるように倒れている龍一を指差して言う。
「おい……、あいつの胸を見てみろ……」
皆がスキンヘッドの言われるままに指差された龍一の右胸を見た。
「穴……だよな?」
「穴が開いてるな……?」
「確かに穴だな……?」
観戦者が口々に言う通り龍一の右胸にぽっかりと穴が開いていた。
黒い穴である―――。




