15・忘れられた楽園
昨日と状況が変わらない龍一の朝。
まだ姉は怒っている。
朝食を同じテーブルで共にしても、会話どころか目すら合わせてくれない。
仏頂面の姉は、さっさと食事を終えると無言のまま家を出て会社に向かってしまう。
姉がいなくなってもリビングには曇った空気がこもり残っていた。
父も母も黙ったままだ。
龍一は気まずい表情で、朝食を続ける。
これは、ただ謝る以外の手段を講じなければと考え始めていたが、なかなか良い考えは纏まらない。
やはり女性の相手は難しい。
異性に対して晩熟の龍一には、女心は難しすぎるのだ。
例え実の姉であろうとも、何を考えているのか理解できない。
故に、どうしたら姉の機嫌が直るかも答えが出ないでいた。
朝食を終えた龍一が時計を見る。もう学校に行かなければならない時間であった。
ごちそうさまを述べると自室に戻って制服に着替えた。
玄関を出ると、いつもと変わらない笑顔でボーイッシュな幼馴染が待っていた。
隣の家の月美である。
「おはよう、龍~ちゃん」
「月美、おはよう」
龍一は幼馴染みに挨拶を返すと並んで歩き出す。
いつもと変わらない月美との登校に安堵を感じる龍一。
ここ数日で、この感覚は確信に近いぐらい、よく思う。
やはり彼女と一緒にいると心が安らぐ。
しばらく会話らしい会話もなく歩く二人だったが、月美の顔を横目で見ると、随分と機嫌が良さそうな表情をしていた。
昨晩のハプニングが嘘のようである。
時間は、あっというまに過ぎて行く。二十分も歩くと大きな駅の建物が見えてきた。
素度夢町駅である。
そのころになって、月美が思いがけないことを言い出した。
「ねぇ、龍~ちゃん。今日の帰り、暇かな?」
「うん、これと言って予定らしい予定はないけど?」
龍一は、小学生のころから帰宅部一筋である。
基本的に放課後は暇である。
それは高校生になっても変わらない。
この二年間の行動パターンは、真っ直ぐ家に帰って本を読むか、本屋に立ち寄って立ち読みに耽るか、たまに友達の卓己と何処かに遊びに行く以外、放課後はフリーマンである。
家に早く帰って勉強すら殆どやらない。
塾にも通っていない。
そこまで勉強に熱心ではないが、人並みの勉強量で人並み以上の成績が取れるのだ。
龍一の通う蓬松高校は、そこそこの進学校であった。
月美の通う女子高よりも数段レベルが高い。
月美も龍一と同じ学校に通いたかったが、学力が龍一に追いつかなかったのだ。
月美が純白の歯を見せながら笑顔で言う。
「じゃ~さ~、今日のさ~、放課後さ~」
もったいぶる口調がじれったい。
龍一が「なんだよ?」と返事をしようとした時である。月美の仕草が可愛らしく変化した。
モジモジと動く引き締まった腰。チェックの短いスカートが揺れるのを、両手で押さえて止めている。
頬が桜色に染まっていた。瞳を泳がせる表情が可愛らしい。
喉の先まで出かかった言葉を飲み込んだ龍一が、ドキドキと胸を弾ませながら幼馴染を見守った。
「あのね、今日さ、買い物に付き合ってもらいたいの……」
「買い物?」
思ったよりも普通の申し出に、拍子抜けしてしまう龍一。
いままで何度も買い物ぐらい付き合ったことがある。
ジョギング用のシューズを買いに行くとか、学校で使う辞書を選んでくれとか、新しいドライアーを買いに行くとか、そんな詰まらないことばかりである。
「何を買いに行くんだよ?」
興味なさげに訊く龍一であったが、断る気はない様子である。
龍一は、人から頼まれたことを殆ど断らない。
「あのね、そのね……」
モジモジする月美。可愛いがじれったい。
「なんだよ?」
「新しいね……」
「新しい?」
「新しい下着を買いに行こうかなって……」
一瞬、言葉の意味を理解できずに龍一が悩んで固まる。キョトンとしてしまう。
龍一の脳内で、言葉の意味合いが正しい言語に置き換えられ整理される。
青臭い脳内コンピューターが、官能を弾き出す。
新しいは、おにゅう。
下着は、パンツ。
イコール。おにゅうのパンツを買いに行く。
更に正しく言葉を整理する。
月美は自分と一緒に、おにゅうのパンツを買いに行きたいと言っている。
月美が買うパンツだ。
それは自分で穿くパンツだろう。
間違いない。
他人が穿くパンツを月美が買いに行く理由がない。
「えーと、月美さん。どういうことでしょうか……?」
言葉の意味は理解していた。
これは、確認の質問である。
「だから、龍~ちゃんが、どんな下着が好きなのか、参考に訊きたくて……」
だからとは何だ!?
だが、これでわかったことが増えた。
月美は、龍一の好みのパンツを知りたいのだ。
だから一緒に女性用下着売り場に行って、選んでもらいたいのだ。
なるほど、その「だから」のようだ。
「月美、確認をしたいのだが……?」
「な、なぁに、龍~ちゃん……?」
鼻息を粗くして問う龍一。核心に迫る。
「お前の言っている下着とは、亀仙人風に述べれば、パンティーですよね!?」
「う、うん……」
視線を合わせず月美は頷いた。
やはり下着とは、パンツである。ブラジャーではない。
健康的な男子高校生である龍一にとってブラはブラで興味深い。
しかし、変態への道に歩み進んだ今現在の彼にとって、パンツとブラとで比べれば、金と銀ぐらいに値打ちが異なる。
龍一の心拍数が速くなる。血管の中を如何わしい感情が流れてざわめく。
「それ即ち、一緒に女性用下着売り場に行こうってことだよな!?」
「そ、そうなっちゃうね……」
ビンゴ!
龍一の予想は正解した。
「龍~ちゃんは、私と一緒に下着売り場に入るのが、いやかな……。恥ずかしい?」
「恥ずかしいけど、恥ずかしくないよ!」
上目使いで訊く月美に、龍一は左右に顔を振る。
あまりの速さに脳がシェイクされたが、歓喜にすべてが麻痺していた。
嫌なわけがない。
寧ろこれは好機である。
女性の下着売り場。そのような天国があることを龍一は忘れていた。
女性の下着が異常なまで好きになって三日目。
そのような極楽浄土が存在することを、考えてもいなかったのだ。
存在を忘れていた楽園である。
そうである。あそこには、彩り緑のパンツが飾られている。夢の世界だ。
龍一は、パンツ大好き人間になってしまったのだ。
その地を目指さないのは、三蔵法師がシルクロードを旅して天竺を目指さないことに等しい。
そんなヘタレ坊主に人としての価値はない。御経を読み上げながら舌を噛んでしまえ。そう思う。
しかし、龍一が一人で女性用下着売り場に立ち入れば、白い目で見られることは免れない。
ヘタをしたのならば、変質者と判断されて、警備員を呼ばれるかもしれないだろう。
だが、これは月美の買い物に龍一が付き合う形で仕方なくついて行くような状況が作れる。
彼女の買い物に、彼氏がついていく。
このように見えるはず。
人様に文句を言われる筋合いがなくなる。
三蔵法師に孫悟空が同伴するのと代わらない。素晴らしく自然なはずである。
あまりの申し出に驚いた龍一が、よからぬ空想に思考回路をフル回転させていると、月美が再度訊いて来る。
「やっぱり、下着売り場に入るの恥ずかしいかな……?」
ちょっと残念そうに言う月美に龍一が「そんなことはない!」と声を荒立てた。
「ちょっと、龍~ちゃん。声、大きいよ……」
辺りを見回してからスマンと謝る龍一。
何人かの通行人が、何事かと二人を見ている。
しかし、足を止める者まではいなかった。
声を押さえて会話を再開させる龍一と月美。
「ほら、昨日の晩さ、龍~ちゃんがエッチな本を見てたでしょ」
「見ていました……」
ばっちりと月美に見られました。
「でさ、やっぱり龍~ちゃんは、大人の女性が好きなのかなって思ってね……」
姉の件やエロ本のせいで、月美は勘違いしているのだろう。
エロ本を月美に向かって突き出し見せたさい、セクシーなお姉さんが黒のランジェリーなパンティ一枚で、卑猥なポーズを決めているページであった。
龍一は、大人の女性が好きなわけではない。パンツが好きなのだ。
エロ本の女性を見て興奮していたわけでも、年上である姉のパンツに興味を抱いたわけではない。
誰のパンツでも良かったのだ。
兎に角パンツに燃えるのだ。
その辺を月美は勘違いしている。
龍一が年上の下着姿やセクシーパンツに興味を抱いていると思い込んでいるのだろう。
「だからね、先ずは形から入ろうと思ったの」
「形……?」
「でもね、大人っぽい下着がよくわからないから……」
「それで、俺に見立ててもらいたい、と?」
「うん……」
小さく頷いた月美の両肩を龍一が両手で掴むと「まかせろ!」と力強く言った。
突然のことにキョトンとしてしまう月美。
「形から入るのに、下着から入るのは、悪いことじゃないと思うぞ!」
意味不明だが、自信満々に述べていた。
「だ、だよね!」
どもりながらも表情を明るくさせた月美が答えた。
傍から見たら馬鹿丸出しだが、本人たちは自覚の欠片もない。
そして二人は、学校が終わってから素度夢駅前で待ち合わせる約束をして別れた。
二人の心は、それぞれの思惑にクルクルと躍っていた。
片や、好いた殿方とデート気分で買い物に出る歓喜に心躍らせ。
そして、誘惑を目指す彼好みの大人のアイテムを手に入れるため。
片や、そうそうないチャンスを有効に生かすために意気込み、禁断の果実が無料で堪能できるパラダイスを目指すため。
幼馴染の二人は、この買い物の約束を、何があっても守る積もりであった。
例え家族の屍を踏み越えてでも、目的地を目指す意気込みだった。




