四
三人目でしたか、あぁそうなんですか。
いねとら組の三人目だと言われて、そう簡単に納得できるわけがない。
怨妖を認識できるのは、いねとら組に関わる者か怨妖自身だと言っていた。怨妖は、妖と化してしまった怨念だとも。
(怨念……)
身に覚えがないわけでは、ない。
胸に、ひとつの光景がよみがえる。
白く明けたばかりの朝、橋のたもとの草むらに倒れる若者の骸。全身は濡れそぼっていて、冷たく冷えきっていた身体。儚く散ってしまった愛しい命を目の前にして、動けない自分。
そのとき初めて、胸の底から抑えられない昏い感情が生まれたのだ。
激しくも乱暴で、破滅をも厭わない荒ぶる思い。
彼の身体にかけられてゆく菰のむしろに、身の内で黒い靄が渦巻き一瞬で生まれた獣が荒々しく咆哮をする。血肉を喰い散らし、肌を破って彼の遺体も、彼をこの運命に突き落とした人々をも踏みつけ潰し、喉笛を喰いちぎってしまいたいという激しい思い。
足りない。
それでも足りない。
剝がれるほどに地面に爪をたてても、ごうごうと頭の中すべてをも振りまわす荒ぶる思いを抑えることができない。
抑えたくもなかった。
叫んでも地面や家財を殴りつけても追いつかない。
すべてを破壊し尽くし引き裂いても足りない。
決して、決して許してなるものか。
必ず同じ目に、いや、それ以上の苦悶を味わわせ、地獄へと突き落としてやるのだ。
抱くべきではない昏い感情だと判ってはいた。
だが、それがあったからこそいままで生きてこれた。だからこの負の感情は―――怨念は、自分自身だ。
いねとら組は怨念の妖、怨妖を祓う存在、らしい。
それは、確実に楓を祓う存在であることを意味している。
怨念にまみれているのを見抜かれ、祓われるのだろう。
一方で、楓は祓う側の一員だとも言う。
敵なのか、味方なのか。
なにがしたいのか、ふたりの真意がまったく読めなかった。
(絶対、裏がある。騙されちゃダメ。あたしを祓うための方便に決まってる。―――ここにいたら、あたし、絶対祓われる)
「あたし……あたしは、三人目だなんて思いません。そんな、わけの判らないことに付き合う暇もないし。からかうのもいいかげんにしてください」
場を取り繕う笑みを貼りつけようとするも、うまくいかない。
「半端なつもりで言うもんか」
切り捨てる桐午。その場しのぎの笑みが、固まってゆく。
「お前が三人目だとしたら、楓。お前が帰るのは澤野やじゃねェ。ここなんだよ」
「どういうことです?」
桐午よりも幾分ひとあたりのいい紗一に訊く楓。彼からは済まなそうな顔が返ってきた。
「この屋敷はあしはらにあってあしはらにはないって桐午が言ったろ? ここには異界に通じている場所があるからなんだ。怨妖はそれに導かれて集まってきて、おれたちは主にそういう集まってきた怨妖を祓ってるんだ。怨妖も、敵であるおれたちを狙ってもくるから、まわりへの影響を考えると、外で暮らすよりここのほうが安全だ、ってなるんだよ」
「三人目かも〝しれない〟っていうことは、違うかもしれないんでしょう?」
「三人目だったらどうする。もしまた次に怨妖と出合ったらお前どうすンだよ。祓うことできねェのに、対処できンのか」
そんな、凄まれても。
自分は怨念の塊。いねとら組の三人目などではない。それだけは、自信をもって言える。
怨妖が見えたのは、自分がそちら側にいるからだ。
(だから狙われるわけないのに)
それよりも、いまこうして自分を支えている思いを無理やり奪われたら、これからどう生きていけばいいのか。
いや、
(生きてなんていけない)
自分にはもう、怨念しかないのだから。
空っぽになって抜け殻になって、けれど仇を打てなかった後悔ばかりは消えなくて。
―――祓われてはならない。
三人目という言葉を餌にして、油断させようとしているのだ。
彼らと関わっては、いけない。
いますぐ逃げなければ。
「なんとか、なります」
「は! なんとかなるって、お前ね。怨妖がらみで死んだ奴ァ掃いて捨てるほどいるんだ。お前は知らないだけ。つべこべ言わずここにいればいンだよ」
「怨妖は走って逃げてどうにかなる相手でもないし、話して説得できる相手でもないんだ。残念だけどいまの楓ちゃんが自分の身を守ることは、できない」
だから怨妖が自分を狙うなんてことないのだと訴えたかったけれど、そこにこだわりすぎるとかえって不審感を抱かれかねない。
「澤野やには帰るなってこと? ずっとここにいろと? お父っつぁんにちゃんと帰すって約束したのは嘘だったの?」
「状況が変わったんだよ」
「うちがかき入れどきだっていう状況は変わってないわ」
「澤野やにも楓ちゃんにも、申し訳ないと思う。でも、どうすることもできないんだ」
諦念にも似た冷静な声の紗一に、楓は唇を引き結ぶ。
「怨妖に対して身を守る手段を持たない以上、楓ちゃんを澤野やに帰すことはできない」
「いままでなにもなくやってきたわ」
「怨妖を認識しちまった時点で、あちらさんが放ってくれねェんだよ」
来るなら来たで上等だ。そのまま怨妖に、あの女をとり殺せと頼み込んでやる。
この怨みが晴らせるのなら、なんだってやってやる。
命だって惜しくない。
―――など、このふたりに言えるはずもない。
襖の前で黙り込んでいると、盛大な溜息を桐午が吐き捨てる。
「あのな。お前が怨妖に喰われてどうなろうと知ったこっちゃねェんだ。けどお前はおれの〈色〉を持ってる。それを持ったままくたばられちゃ、困るンだよ」
「好きで桐午さんの〈色〉を持ってるわけじゃないし」
「おれだってお前にやったつもりはねェよ」
「そのことなんだけどさ」
口を開けば言い争ってしまうふたりにも慣れたのか、既に気にするふうもなく紗一は楓に問いかけた。
「桐午は何年か前に怨妖に不意打ち喰らって〈色〉を奪われたんだ。その怨妖が〈色〉を持ってるならまだしも、どういうわけか持ってるのは楓ちゃんでしょ? 楓ちゃん、怨妖だと気付かないままそいつと遭遇して〈色〉を受け取ったとしか思えないんだけど、なにかそういうの心当たりとか、ある?」
「心当たりって、そんなの……」
紗一の言葉だとすんなり聞けてしまうから不思議だ。きっと、いちいち突っかかってこない彼の人徳なのだろう。
一応言われるまま、自分の記憶を思い返してはみる。
過去の情景を思い返すうち、すぐに心の臓を止めるほどの考えに思い至る。
知らない誰かからなにかを受け取ったことはないけれど、
(もしかしてその怨妖が、知っているひとに化けていたら?)
たとえば、おかよとかに―――。
(あの女に……?)
あの女が怨妖?
一瞬、目つきに昏いものが浮かんでしまう。
しまったと焦る気持ちに息を呑みそうになったが、気付かれなかったのかふたりはなにも言わなかった。考え込んでいるのだと誤解してくれたのかもしれない。
「〝なにか〟を受け取ったという感覚じゃないのかもしれない。なにかが消えたとか、なにかを取り込んでしまったとか、怖い思いや不思議な体験をしたとか」
不思議な体験。
なにかを、取り込んだ。
あ、と今度こそ思い当たることがあった。
「この前の花見のときなんですけど」
「おう」
身を乗り出す桐午と紗一。
ひと月ほど前になるだろうか。店の番から解放されて、ひとり墨多川沿いの桜を見に行ったことがあった。そのとき、桜の花がすべて持っていかれるほどの突風が吹き抜けて、その際、風に翻弄された花弁の一枚が、薄く開いていた唇からするりと口に入ってきたのだ。
「でも、舌の上で雪みたいに溶けて消えてしまって。桜の花弁じゃなかったのかもって思ったんです。まわりを見たらみんな全然騒いでないし、出店のひとたちもなにもなかったみたいにしてたから、風も気のせいだったのかなって思ってたんです、けど」
桜の季節は毎年、亨と墨多川に花見に行っていた。昨年は胸が苦しくなるばかりで墨多川に足を向けることもできなかったが、今年は思いきって行ってみたのだ。
彼のことばかりを考えていたから、突風も花弁も、浸りすぎていた思い出と現実とが綯いまぜになったせいだとばかり思っていた。
桐午と紗一は、難しくしかめた互いの顔を見た。
「おれの〈色〉かもしれねェな、その桜の花弁ってのは」
「口で溶けちゃったのか」
「だから触れたり口を吸うと〈色〉が戻ってくるんだな」
「ちょ、吸わないでくださいよッ!?」
雰囲気でいったんその場に座った楓だったが、しみじみとした口調でじっと唇を見つめられて、慌てて口を両手で隠した。
紗一は胸の前で腕を組んで考え込んでいる。
「どした紗一」
「うん……」
やっぱりさ、と紗一は楓に視線を移す。
「楓ちゃんは、ここで暮らしてもらったほうがいいんじゃないかな」
「なんでそうなるんですか」
「三人目じゃないかもしれないから」
「え」
目を剝いたのは、桐午だった。
「どういうことだ?」
「楓ちゃんは桐午の〈色〉を身体に取り込んだから、あの怨妖を認識できたのかもしれない。三人目だからじゃなく、桐午の力の一部を取り込んでしまったから。だから、見えた」
「だが怨妖には、そんな事情知ったこっちゃない、と」
「ああ」
紗一は頷く。
「あの、よく判んないんですけど。どうして三人目じゃないのに帰っちゃだめなんですか」
「阿呆か。いま言ったろォが」
脱力しながらも桐午。
(判んなかったから訊いたんでしょ)
いちいち莫迦にされて腹が立つ。
「三人目だったら、いずれは怨妖に対処できるようになる。それまでだったら、澤野やにどうしても戻りたいンなら、なんとかこっちで対処できる、のかもしれん。だがおれの〈色〉を喰っちまったせいで怨妖が見えるようになっただけなら、三人目ってわけじゃない。つまり、お前は自分の身を守る手段を今後持つことはないってことだ。だが怨妖側にゃ、そんな事情はおかまいなしだ。己を認識する存在は自身を祓う存在だとして襲ってくる。ってなわけで、お前はおれたちに一生守ってもらわにゃならんとなるわけ」
一方的な言い分に、あんぐりと口が開いてしまった。
「おれの〈色〉を持ってるんだから、気軽に死なれちゃ困るしな」
「そんな。全部そっちの勝手な事情でしょ!」
「それだけじゃない」
楓の反論にかぶせるように桐午。
「周囲の人々にも被害が及ぶ。澤野やの家族が狙われて被害が出たらどうする。四六時中お前を守れるのは、澤野やよりもここのほうが安全だし、確実なんだ」
紗一が桐午に目を向ける。桐午はそんな紗一に目配せをするが、楓は気付かない。
そうだろうかと、楓の胸に疑念が湧き起こる。
怨妖は、同族を襲うだろうか?
(たぶん、襲わないわ。むしろ)
怨念を持つ者同士、協力してくれるはず。
三人目であってもそうでなくても、怨妖に襲われることはきっとない。
けれど、辰吉たちは違う。彼らは楓のように深い怨念を抱いてはいない。ちゃんと前を向いて歩んでいる。
幼い自分を引き取って本当の娘のように育ててくれた辰吉たち。ふたりに危害が及ぶようなことは絶対に避けたかった。ふたりが危険な目に遭うというのなら、頭ごなしに澤野やに帰るとは言えなくなる。
(でも……)
ここにいたら、紗一や桐午の近くにいたら、自分は祓われてしまう。
十中八九、祓われる。
そうしたらこの思いは、亨の無念は?
行き先を、失う。
(あたしが怨妖だってことは)
絶対に、悟られてはならない。
意地になって拒絶をすると、かえって怪しまれてしまう。
隠しとおすことが、できるだろうか。
不安しかない。
けれど、
(隠しとおさなきゃ……)
いきなりで無茶苦茶な話だけれど、自分の怨めしい気持ちを守るには、彼らの言うとおりにすべきなのかもしれない。
長い間じっと黙り込んでいると、痺れをきらしたのか桐午が乱暴に首を振った。
「ああぁ、だめだだめだ紗一。この莫迦にゃ説明しても無理だね。いっそのこと怨妖に喰われちまえば〈色〉も戻ってくるかもしれねェ。莫迦の思うとおり澤野やに帰ってもらおうぜ」
心底莫迦にしたその言いっぷりにカチンときた。固まろうとしていた決心が、ぱっと散った。
「なんですかそれ。だったら、ええ判りました。帰ればいいんでしょ。おっしゃるとおり、帰らせていただきますッ」
「ちょ、あの、楓ちゃん……?」
「桐午さんの〈色〉なんてどぉうでもいいことです。怨妖とやらに喰われたって、地獄の果てまでこの〈色〉持っていきますからねッ!」
「帰れ帰れ。そンでさっさと〈色〉を返しやがれってんだ」
「絶ッッ対返さないから! ふんだッ!」
「あ、待った楓ちゃ」
背中に紗一が呼び止める声がかかったが、楓は無視してそのまま足音荒く廊下へと飛び出した。
嵐が過ぎ去った静けさとでもいうのか、部屋にしんと静寂が下りた。
「……なぁ桐午」
楓が消えた廊下の先を見遣りながら、紗一はそれとなく訊く。
「楓ちゃんの周囲のひとたちも狙われるってさ、怨妖って、そんなだったっけ?」
「うるさい。知るか」
「妙に楓ちゃんにつっかかるけど、お前たんにそばに置いてお」
「紗一。どうせそこらで迷子になってるから、さっさとあいつ拾って澤野やに届けてやれ」
「……」
触らぬなんとかである。
紗一は軽く肩をすくめ、「はいはい。ひとづかい荒いんだからもう」とぼやきながらも楓のあとを追い、興奮冷めやらぬ彼女を澤野やへと送り届けたのだった。