三
楓は再び、先程の屋敷に連れ戻された。案内されたのは、玄関にほど近い床の間のある二間続きの広い部屋だった。
桐午と紗一は床の間を背にして楓に向かい合う。ぴりりと張りつめた表情を僅かも崩さない。
「さっきの女に、なにか気付いたことはあった? 他のひとにはない『なにか』があったとか、なかったとか」
しばらく考え込んだあと、紗一が訊ねてきた。
抗いがたい空気に、どうしてそんなことを訊くのかとか、何故澤野やに帰してくれないのかなど訊きたいことは山ほどあったが、自分が疑問に思うこと以上に重大ななにかが起こっているのだと、頭の奥深いところが警戒をし始める。
紗一がそう訊くということは、あの女にはなにかがあるのだろう。そして楓には、言われたとおり思い当たることが、ある。
「左の胸のところに……陽炎みたいなもやもやしたものが、あった気がしました、けど」
「もやもやしたもの、とは?」
「模様のようにも見えました」
「どんな模様だった?」
感情を抑えた声で桐午が重ねて訊く。
「どんなって……、籠目のような波のような……ごちゃごちゃ入り組んでる感じで」
「それを見て、身体がざわつく感覚というか、なにかはやる感じはなかったか?」
「いえ、それは……」
「どうなんだ」
「……ないです」
問い詰めていた桐午が眉をひそめた。
「ない? なかったのか? ちっとも? まったく?」
「ええ」
「ホントに?」
「本当にです。なにも感じなかったです」
しつこく念を押してくる桐午に、ちょっとムッとした声になる。
当の桐午はなにに驚いたのか、意外そうな顔をして紗一を振り返った。
「どう思う」
「紋は見えてるようなんだけど」
「それだけみたいだな」
「三人目だと思う?」
「おれンときは、すぐに手ェ動いたけどな」
「おれもだ。紋が見えたと思ったら、自然に手が動いてた。なのに楓ちゃんは違ってる」
「なンも感じねェが、それでも紋が見えてるってことは」
「やっぱ三人目、ってこと、でいいのか?」
「いやいや待て。三人目なんじゃなく、あいつに奪われたおれの〈色〉を持ってるから見えただけかもしれねェ」
難しい顔で首をかしげた紗一に、制するように手を差し出す桐午。
「あぁ……」
腑に落ちたように紗一が唸る。
「でもそれだけで紋が見えるようになるんだろうか」
「判んねェ……」
首をかしげ、がしがしと桐午は頭を掻く。
紋とか手が動くとかところどころ聞こえる単語はあるが、なにを話しているかまでははっきり聞き取れない。
目の前で内緒話をされるのは正直気持ちのいいものではない。まして、ちらちらとこちらを窺ってくるのだから、なおさら居心地が悪い。
だからなんとなく畳の目を辿っていたら、
「―――ときに楓。お前、干支はなんだ」
いきなり桐午はこちらを向いて訊いてきた。
「干支? 亥年ですけど」
「猪突猛進の亥か」
「ひとこと多いです」
「亥だとよ」
楓の抗議をまるきり無視し、紗一を見遣る桐午。紗一は、噛み締めるようにひとつ頷きを返す。
決意の込められたまっすぐなその眼差しに、桐午は頷いた。
そうして彼は胸の前で組んでいた腕をほどくと、ずいと楓へ膝を進めた。
「―――楓。お前に話がある」
絵を描いているときのとはまた違う真面目な表情を、桐午はしていた。
怨念というものを知っているか。
桐午は最初にそう訊いてきた。
ぎくりとした。
かろうじて、ひとつ頷きを返す。
楓の動揺に桐午は気付かなかったらしく、重々しい口調で話を続ける。
「怨念ってェもんは、所詮ひとの感情だから、普段は放っておいてもまったく問題はねえ。だが、ときどきその怨念が妖になっちまうことがある」
「妖……」
「ああ。おれたちはそれを怨念の妖と書いて、怨妖と呼んでいる」
「怨妖……。怨念の、妖……」
話の行き先が読めず、警戒を懸命に隠しながら言葉を繰り返す。
桐午と紗一は、その怨妖を祓う、いねとら組の一員なのだと言った。
「いねとら組? 聞いたことないですけど」
火消しのようなものだろうか。そんなおかしな名前の組があるのだとしたら、噂で耳にしたことがあってもいいはずだが。
「そりゃ当然だ。おれたちいねとら組に関わることは、どういう不思議か、他のあしはらの者たちにゃ認識されねェからな。さっきもあの女が現れたとき、まわりはなンもなかったようにしてたろ?」
「消えたように見えましたけど」
あの女が消えたあとに見えるようになった人々の様子は、確かに、何事もなかったかのようだったけれど。
「消えて見えたのは、その者たちがあの場に関わりがないからだ。最初はそんなもんだ。場数を踏めばいずれ見えるようになる」
ここで場数という単語が使われる意味が判らなかったが、聞き返す前に言葉は続いてゆく。
「お前は、他の者は見えなくなってもあの女を見ることはできた。いまもこうして、覚えている。そうだな?」
「はい」
「怨妖を認識できるのは、怨妖自身か、いねとら組と関わりがある者だけだ。それ以外は、認識することができない。風景の一部として見ることはできても、それがモノとして存在していたと記憶することはない。で、お前はちゃんとそれを記憶している」
「……」
神妙な声音になる桐午に、楓は唾をひとつ呑み込む。
(これって、あたし……試されてる、の?)
どうしていきなり怨念の妖の話をするのか。
桐午たちの意図が読めない。
胸の内を勝手に見透かされて、担がれているのかもしれない。
話に乗ったらそれみたことかと、
(ひとを怨むのはいけないだのやめろだの説教されるんだわ。怨妖だかになるからどうのこうのとかで責めたててきて)
知らず、膝の上の手にきゅっと力がこもる。
胸の奥底に閉じ込めた昏い思いは、誰にも言ってないし気付かれてもいないはず。彼らは怨妖だかに接しているせいで、一方的に楓の思いを見抜いてしまったのかもしれない。
勝手に心の底を暴きたてて、それで文句を言うつもりなのか?
(怨妖? いねとら組?)
「それがどういうことか、判るな?」
表情をこわばらせて黙り込む楓に桐午は問う。
(どういうことかって)
こんなわけの判らないふたりに付き合う必要なんてない。さっきのも、なにか仕掛けがあったのだ。ひとを怨むというのは不毛なことだどうのこうのと善人ぶって偉そうに説教を垂れるために仕組んだに決まっている。
聞く必要なんか、ない。
「あたし……帰ります。お父っつぁん待ってるし」
「おい。話はまだ終わってねェよ」
立ち上がり帰ろうとした楓の背中に声がかかった。
「お前はな」
「だから帰ります」
最後まで聞きたくなくて楓は強くかぶせた。吐き捨てる乱暴な吐息がひとつ聞こえてきた。
「あっそ。さて。迷わずに帰れるかどうか」
「―――どういうことですか」
振り返ると、魂まで見透かされるほどまっすぐな桐午の眼差しとぶつかった。
「言葉どおりだよ。お前はこの部屋を出たら、右に行けばいいのか左に行けばいいのか判らず、むやみやたらに足を踏み出したら永遠にさまよい続けることになる。運よく邸から出られても、門まで辿り着くことは不可能だ」
つい先程の、邸内で迷子になったばかりの自分がよみがえる。
「この屋敷はあしはらに存在してはいるが、存在してない場所でもある。なンも知らねェ奴が案内もなしに足を踏み入れて、無事でいられるわけがない」
「帰さないと脅してるんですか。お父っつぁんとの帰すって約束、反故にするつもりなんですか」
「そういうわけじゃないんだ。どうしておれたちが楓ちゃんにこんな話をしたのかっていうと」
喧嘩が勃発しそうな勢いの楓と桐午に、紗一が割って入った。
「楓ちゃんは、三人目かもしれないからなんだ」
「―――三人目? なんの、ですか」
「おれたちいねとら組の、三人目、だ」