二
部屋に戻った桐午は、一応楓を探してくれたらしい。廊下で鉢合わせると、それ見たことかと上から目線で嫌味を言われたが、結局桐午も紗一とともに送ってくれることになった。
時間は八つ(午後二時頃)を過ぎたあたり。思った以上に桐午の筆は早いらしい。
三人で屋敷を出て、少ししたときだった。
急に、空気がねっとりと喉や肌にまとわりついてきた、気がした。
空気の濃度にムラが生まれ、周囲のものがゆらりと歪む。なんとなく、あたりも暗い。
気のせいかとそっと桐午たちを窺うと、厳しい眼差しでふたりはある一点をじっと見据えていた。
そちらに目を遣ると、若い女がひとり、壁の前でひっそり佇んでいた。
佇んでいるだけなのに、何故か視線を外すことができない。
こちらの視線を感じたのか、女はゆるりと身体をこちらに向け、感情の読めない虚ろな眼差しを投げかけてきた。
その眼差しに、ぞっと背中を冷たいものが這いのぼった。どろりとした冷たいなにかが全身に広がるその感覚は、ただの〝怖い〟というものではなく、いままで経験したことのない、感情では説明のつかない異質なものだった。
女の視線を遮るように、桐午たちが楓の前に移動してくる。
(なに……あのひと。なんか、ヤな感じ)
どこがどう嫌悪感を催すのかはっきりとは言えないけれど、近付きたくないと、近付いてはいけないと、頭の深いところで叫ぶもうひとりの自分がいる。
女は、真っ白な顔をしていた。挑発をしているのか唇の端をにやりと上げ、軽くその手を宙に泳がせた。
そして、なにもなかった空間を摑む。
すると突然、肩を摑まれた若者が現れた。
若者は声をあげて跳び退る。左の肩口に手をやり、浅くはあったが切りつけられている事実に罵りの言葉を吐き捨てる。が、目の前にいるはずの犯人が判らないのか、あたりを見まわしているばかり。
しばらくは腰を落として周囲に険しい眼差しを投げかけていたが、すぐそこにいる女が判らないらしい。とうとう苛立たしげに立ち去っていった。
楓たちがいることにも、気がついていないようだった。
再び女は可笑しげに笑いながら手を伸ばす。
人間の腕の長さを軽く超えて、それは伸びてゆく。
楓たちのすぐそばへと伸びたそれは、またなにもない空間を摑んだ。
次に引きずり出されたのは、楓より幾つか年上だろう若い女だった。
彼女が摑まれたのは髪。女が手に力を込めると、結い上げた髷が崩され、ざくりと音をたてて切り落とされた。突然の出来事に彼女は身体をこわばらせたが、先程の若者同様、女にも目の前にいる楓たちにも気付くことなく、悲鳴をあげて逃げだしていった。
女は、くつくつと嗤っている。
(なに……、これ……)
異様な空気に圧倒される。
息をするにも酩酊しそうな濃密さにすべてが惑わされそうで、自然浅くなる呼吸に胸は苦しさを訴える。
女はふらりと足を踏み出して、また手を伸ばした。
獲物を探して宙をさまよう長い腕。摑むものを求めてそよぐ、細く長い指。
「桐午」
「ああ」
紗一と桐午は怖くないのか、ひたと強い眼差しでその女を見据えている。しかも、楓を連れて逃げるでもなく、そのまま一歩、女に向かって足を踏み出しさえした。
(?―――なに……? 逃げないの?)
何故、この奇怪な女から逃げようとしないのか。
訝しみながらふたりの背の間から窺っていると、女の左の胸元あたりに、陽炎がたった気がした。
(?)
ひとの胸元に、陽炎はたつものだろうか?
陽炎はするりと収束するもすぐに現れ、揺らめく濃淡で籠目のように入り組んだ模様を描き出す。模様は蔓が絡み合うように、少しずつ成長をしながら複雑に大きくなってゆく。
(え……? どういう、……な、に?)
あんなもの見たことがなかった。陽炎というのは、ひとの胸の上でわだかまるものだったろうか?
目を何度もこすってみても、それは変わらず女の左胸でうごめいている。
気がつけば、この場には女と桐午、紗一、そして楓の四人しかいない。
武家屋敷が立ち並んでいる場所柄、町人の姿はそれほど多くはなかったが、それでも女中らしきひとや奉公人、僧侶などの姿があった。なのにいま、自分たちを除いて皆が皆姿を消してしまっている。
先程の騒ぎで、一目散に逃げたのだろうか。
(―――ううん、違う)
あの女が現れた時点で、既に誰もいなかった。
見えなくなっていたひとが、あの女が引きずり出したことで、見えるようになったのだ。
いったいいつから自分たちだけになっていた?
桐午たちは更にもう一歩、女に近付く。
(なに、するつもり? 逃げようよ)
女を止めるつもりなのだろうか?
余計なことはしないほうがいい。
さっさと逃げるべきだ。
けれど、楓の足は動かない―――動けない。逃げるべきだと言おうにも、喉は固まってしまって声が出ない。
そんな楓をよそに、桐午たちはおもむろに宙に人差し指を中指に重ねて差し出した。そしてそこに、文字のような模様を描きだす。
描くというよりも、指でなにもない宙に模様を彫り込んでいる。
右手で模様を描き、左手は、その模様―――その空間を逃すものかと押さえ込むようにして、強く宙を握り締めている。
がりがりと音が聞こえそうなほど力を込めて彫られてゆくその模様は、女の左胸に現れた模様そっくりだった。そっくりどころか、
(写し取ってる……? なんで? というか、なんなのこれ)
紗一の描く模様は、細い水のような軌跡。桐午のは炎で描いたような軌跡を残している。重ねた指先から、描いた軌跡に沿って水や炎が流れているのだ。
いったいどんな仕掛けなのか。
こんな不可思議なこと、見たことも聞いたこともない。
目を開けたまま、夢でも見ているのか?
宙に模様が刻まれるにつれ、女は苦悶の表情を浮かべだす。
ぐっと息を詰まらせ、こちらを睨み据えてきたが、構わず桐午と紗一は模様を宙に描き続けてゆく。僅かな時間でふたりが模様を描ききると、鬼のような形相から一転、女は縋る眼差しとなった。
完成した模様が、無情にもそんな女の左胸の模様へと吸い込まれる。
左胸に再び陽炎が鮮やかに立ち上がり、真ん中から解ける模様に巻き込まれるようにして、女は消えてしまった。
耳にわぁんと喧騒が返ってきた。
乱れていた水面が落ち着いて景色を再び宿すかのように、あたりは元の明るい昼の光景へと戻り、消えていた人々の姿も瞬きのあと、ふっと現れた。
人々は、道に切り落とされた髷の残骸が落ちていることに気付きはするものの、ちらりと見遣るだけで、驚きもしない。
いつもの町の光景が、何事もなかったように目の前に広がっていた。
(え、ちょ。……どういう、こと……)
桐午たちも平然と歩きだして、だから楓の頭はいっそう混乱をする。
「あの、ちょっと……、―――ねえ、なんなの、あれ」
こぼれた呟きに、桐午たちは怖い顔で振り返る。
「あれなんだったの、なにしてたの。なんでなんにもなかったみたいにみんなしてるの? あの女のひと……、ふわあって、どうしちゃったのよ。なんでみんな……なんで知らんふりなの!?」
楓の悲鳴に、桐午たちの表情が見る間に凍りつく。どちらともなく顔を見合わせ、恐るおそるといった態で訊ねてきた。
「いまの、判ったのか?」
「? 判った、って? 判るもなにも、いま目の前で紗一さんや桐午さんが変な模様を宙に描いて」
「待て待て。そんなわめくなって」
「だって」
楓は桐午を食い入るように見上げた。いま見たものが現実なのか幻だったのか、答えをその表情に懸命に探す。
「だって、だから。……、だっておかしいじゃない? まわりのひとが消えて、女のひとが腕をすごく伸ばしてひとを摑んで、怪我とか髷切ったりして。そしたら紗一さんと桐午さんが模様を宙に描いて、女のひとに吸い込まれて消えちゃって、なのになにもなかったみたいにしてるから……」
自分で言いながら、わけが判らなくなる。自信がなくなってきた。そんな莫迦げた話があるだろうか?
「あたし……、夢でも見てたんですか……?」
白昼夢でも見たのだろうか。
神妙な顔になる男ふたり。ややして、
「楓。戻るのは澤野やじゃねェ。さっきの、おれたちの住処だ」
そう桐午は重々しい口調で言ったのだった。