【第二章】 一
絵を描く最中、どこかに触れていなければ色を見ることができないとあって、さて、どのように触れ続けようかと試行錯誤をした結果、桐午の左手で楓の右手を摑むという格好に落ち着いた。
異性に手を握られることに抵抗はあったが、目の前で生み出されてゆく色鮮やかな作品に、最初の苦痛もどこかへと消えていった。
瞬きをするのも惜しいと感じるほど、描かれていく絵は見事だった。
手本も下描きもなく、広げた紙に筆を走らせる桐午。筆を変えるたび、描く場所を変えるたび、楓の右手は桐午の左手に引っ張られ、よどみない動きに身体ごと持っていかれそうになる。一心不乱な桐午は、楓の手をしっかりと握って離さない。
桐午の動きに翻弄されながらも息をつめてその様子を見守っていると、やがて紙の中にひとりの若い娘が現れた。
縞の前垂れをつけて、微笑みながらこちらに向けてお盆からお茶を差し向けている。
(どこかの茶酌み女……かしら)
旅人や道行く人々にお茶を提供するだけでなく、近所の住民たちの休息の場にもなる水茶屋。茶酌み女は水茶屋で働く娘のことである。たんにお茶を出すだけでなく、たいていの茶酌み女は見目がそれなりに良いこともあって、男たちは如才ない会話を求めて通うこともある。
場所によっては春を提供したりもするのだけれど、桐午が描いたこの娘は清らかな雰囲気ですっきりした印象だ。提供するのはお茶とせいぜい軽やかな会話程度だろう。
生きいきとしていて、「お待たせしました」と、涼やかな声が聞こえてきそうだ。
しばらくすると筆を置いて、桐午はひとつ息を吐き出した。
描き終わったようだが、楓の右手は握られたままだ。おそらく、気がついていない。
「―――手、もういいですか?」
「え? あぁ、ありがとな」
桐午は本当に失念していたらしく、硬くなってしまった手を離した。絵を描くときは、きっとすべてが描くことに集中してしまうのかもしれない。
指の痕が赤く残っている。なんとなく恥ずかして、楓はそれとなくさすって誤魔化しながら訊いた。
「誰なんですか?」
「初音屋のおせいだ」
「水茶屋……のひと?」
「ああ。昔、阿佐草にあった店だ」
桐午は描きあがった絵から目を外すこともせず、なんでもないことのように言う。
(桐午さんのいいひとなのかしら。―――って、どうでもいいんだけど)
「じゃああたし、もう帰ってもいいですよね?」
「ん? ―――そうか。そうだったな。ちょっと待ってろ。手ェ洗ってくッからよ。澤野やまで送る」
指を組み合わて両腕を頭上へと伸びながら、桐午は立ち上がる。
「あの、いいです。送ってくれなくても」
このあたりに来たことはないが、子供じゃないのだからひとりで帰ることくらいできる。
「絶対ェに迷うから送るンだよ。意地張って迷子にでもなったら、暮れ六つどころか十年経っても帰れやしねェ」
「そんなことありません」
むっと言い返す楓に、「迷うんだよ、どんな聡明な野郎でもよ」と言い残し、桐午はさっさと部屋から出て行った。
(なによ、もう。莫迦にして)
子ども扱いに軽く唇を尖らせる。この隙に帰ってやろうと、襖を開けて両側を確認する。
右にも左にも、廊下は同じように続いている。
(? ―――あれ。あたし、どっちから来たんだっけ?)
玄関から長い廊下を歩いてきた。何度も廊下を曲がったのを覚えている。なのに、この部屋にどちらからやって来たのか思い出せなかった。
とりあえず廊下に出てみようと一歩を踏み出した。
天井の古びた模様、柱の色、廊下の板のすり減り具合。並んでいる襖。
この襖を右手に見ていたのか、左手に見ていたのか―――。
(……)
まったく記憶にない。
とりあえず、左へと歩を進めてみる。
廊下は右側へと折れていて、曲がるとまた同じような光景が現れた。この方向で合っているのか不安になりながらも勘が示すほうへと何度か曲がると、大きな池のある広い庭が現れた。
(嘘やだ、あたし迷った)
桐午の部屋に連れられるとき、こんな庭など見ていない。
言われたそばから迷子になってしまった自分が悔しい。がっくりと肩が落ちた。
「楓ちゃん? どうしたのこんなとこで」
庭に向かって自己嫌悪に陥っていると、背中にかかる声があった。
振り返ると、黒髪の髷をしたあしはらの顔立ちの男、紗一がいた。
「紗一さん。……あの、つまりは、……迷子になってしまって」
「まさか桐午の奴、厠に案内するだけしてあとは自分で戻って来いって放ったのか?」
「いえ、そうじゃなくて。絵が描き終わったから帰ろうとしたら迷ってしまって。桐午さんは送るって言ってくれたんですけど……」
不本意だが、ちゃんと言われたとおり待っていればよかった。
楓の言葉に、得心がいったように紗一は相槌を打った。
「そっか。ちょうどおれも外出するところだったからさ、じゃあ、一緒に澤野やまで行こうか?」
今度は素直に聞こうと、楓はしっかりと頷いたのだった。