三
紗一と桐午は、こちらをちらちらと見遣りながら言葉を交わしている。
部屋の隅で男ふたりが額を突き合わせて小声で話すさまは、はたから見たら滑稽かもしれないが、いかんせん、楓にとっては他人事ではない。
いったいなにが起きていて、なにが起こるのか。ここはどこで、なにをされるのか。澤野やに帰れるのはいつで、それ以前に本当に帰れるのか、生きて帰れるのか。亨に後ろめたい思いをせずに済むのかどうか。いや最後に関しては、もう既に唇を奪われてしまっているから手遅れだ。
頭を駆けめぐるのは、不安な思いばかりだった。
言葉を交わし合う桐午たちを、じっと窺う。
桐午は、紗一から訊かれたとき、楓を〝女〟として連れてきたのではない、というようなことを言っていた。
だとしたら、〝女〟としてなにかをされるわけではないはず。初対面で無理やりここに連れられたのは、〝色〟違い。
〝女〟の意味ではない……?
〝色〟が見えると言った桐午。床に散らばる奇天烈な色遣いの絵からすると、きっと文字どおり〝色彩の色〟のことだろう。
ならば、命を取られるとか操を奪われるなどの心配はしなくていいのかもしれない。
―――被害は既に受けてしまっているけれど。
(初めてだったのにッ!)
次第に、怒りがふつふつと沸いてきた。
南蛮男、桐午の事情? それがなんだ。
無理やり連れてこられて、不可抗力だったとはいえ唇を奪われるだなんて。
(亨さんにもされてないのに!)
初めての、接吻だった。
なのに、謝罪のひと言もないだなんて。
色が見えるとはしゃぎさえしている。
信じられない。
なんなのだ、あの男!
いたくない。こんなところ、いたくない。
話し込む男たちに、そっと楓は腰を浮かせ、気付かれないようゆっくりと窓近くへと移動を始めた。だが、
「どこに行く」
すぐに気配を察知されてしまう。桐午の切りつけるような咎める声に身がすくんだ。
「そんな怖い声出してどうすんだよ。えっと、……誰?」
紗一が桐午に訊ねる。知らんと言う桐午に、紗一の肩ががくりと落ちた。
「名前くらい聞いとけよ、自分を救う相手なんだろが」
(? 救う?)
意味不明な発言が降ってきた。
「ええと、つまり、澤野やのお嬢さん、でいいのかな?」
「そう、ですけど」
桐午よりも紗一のほうが話は判りやすそうだったが、油断は禁物だ。僅かな仕草も見逃さないよう、警戒しながら返事をする。
紗一はしかし、あからさまな楓の警戒も気にするでなく、温和な笑みを浮かべた。
「名前、訊いてもいいかな。おれは紗一。こいつは桐午。桐午は、絵師をしている」
「……楓、です」
この南蛮風味男は絵師なのか。
足元の絵をちらりと横目で見た。
(絵師? これで?)
「こいつの絵、色遣いがおかしいと思うだろ?」
「……」
本人を目の前にして、素直に頷いていいのかどうか。正直に答えて態度を変えらるのはごめんである。
「事情があってね。〈色〉が見えなくなったんだ。見えないだけじゃなくて、こいつ自身からも、〈色〉がなくなっちまった。南蛮人みたいだろ?」
ゆるゆると頷く楓。
(色が見えない? なくなった? 事情って、そんな莫迦げた事情、どんな事情なのよ)
身体から色がなくなるだなんて、聞いたことがない。
けれど―――
絵を挟んだ向こうに腰を下ろす、ふてくされた顔の桐午。
―――実際、目の前にいるこの男には濃い色がどこにもない。瞳も髪も、ごくごく薄い色だ。
「何年も白と黒だけの世界で生きてたんだけど、どういうわけか楓ちゃんに触れると、なくなった〈色〉が認識できるらしいんだ」
「色が見えるようになったってことですか?」
「触れてる間だけだ」
紗一が口を開く前に、桐午は身を乗り出してきた。
「それだけじゃない。唇同士が触れ合うと、僅かな間だが、触れてなくとも〈色〉が見えるんだ」
「そんな莫迦な」
「冗談言ってどうする」
「だからそんな凄むなってば」
「……。お前が必要なんだよ」
目の奥底までをまっすぐに見つめてくる桐午。透きとおる薄い藤色の瞳とその言葉に、不覚にも大きな鼓動がどきりと胸を叩いてくる。
「こんな色遣いをしてるなんざァ、絵師だなんて恥ずかしくて名乗れやしねェ。だがどうしたって絵を描きたいんだ。おれはこの世界がたくさんの色に満ちてることを知ってる。色あふれた絵が描きたいんだ。おれに、絵を描かしてくれやしねェか」
彼の目が、強い光を宿してぶつかってくる。
絵心なんてからっきしない楓でも、桐午の色遣いは絵師には致命的だと判る。
それに、こんな真剣な眼差しを拒絶することなんて、きっと、誰にも、できない。
「……一枚、くらいなら、いいですけど」
「ホントか!」
「ですけど! 唇を触れ合わせるのは絶対に承知しませんから。描き終わったら、すぐに帰らせてもらいます」
「がってん承知ッ!」
子供のようにぱっと顔を明るくして、桐午は嬉々として棚から新たな料紙を引っ張り出したのだった。