【第一章】 一
八つの島々によって成り立つあしはら。この国は、神代の昔、イサナキとイサナミの国産みによって生まれたといわれている。
それから二千五百年以上も経っているので、楓には本当のことなんて判らない。
「いらっしゃいませー」
枝都の町。戦国時代が終わった何百年も昔から、枝都はあしはらの首都として栄え続けている。
「どうもー。また来てくださいねー」
枝都の西の端にある町、中町。この中町のど真ん中にある忠相寺の藤の花は、毎年見ものだった。
今年も忠相寺の藤の花は見事に咲き誇り、枝都中からの見物客で、いつにもまして賑やかだった。
「これなんか藤の色が淡く出てて、お客さんに似合うと思いますよ」
忠相寺の門前通りから一本入ったところにある、通称あじさい通り。小間物屋、澤野やは、その中ほどに位置している。看板娘でもある楓は、今日も藤の花を見に来た客たちに愛想よく応対していた。
色白の肌。くるりとした大きな目と小ぶりの鼻、少し厚めの唇には、澤野や一押しの薄桃色の紅を乗せていた。髷は結わず、頭の高いところでひとつに結んだ髪の先は、寝るときに編むことで波打つよう癖付けをしている。髪の結び目に挿したしゃらりと揺れる藤の髪留めも、澤野や一押しの商品だった。髷を結わずにひとつでまとめて垂らすのは最近枝都の中心部で流行りだした髪型だったが、この界隈では楓以外にはなかなか見ないのが実情だった。
そんな楓の顔が、ぱっと上がる。
「お客さん、お櫛! 忘れてますよー!」
買った商品を忘れた客を追いかける足取りは軽く、澄んだ声はひと込みの間を通り抜けてゆく。
振り返った客に商品を渡し、店に戻ろうと笑顔のまま踵を返したときだった。
「ッ!」
突然の衝撃に襲われた。
真後ろにひとがいたのに気付かなかった。
見事に顔からぶつかってしまい、その勢いでひっくり返りそうに―――なる直前、手首をはっしと摑まれ、なんとか尻もちは免れた。
「ああぁ、ありがとうございますッ。あの、すみません、いきなり向き変えちゃって」
人通りが多いのだから、背後に気を配るべきだった。
身体を支えるそのひとに腕を引っ張り上げられ―――るのかと思ったが、どういうわけか彼はただ手を摑んだまま突っ立っている。楓は怪訝になりながらも体勢を整えた。
(やだ、もしかして怒らせちゃったとか?)
紅が着物に付いてしまったのかも。そう思って見てみたが、大丈夫そうだ。
手首はいまだ摑まれたまま。大きな指はしっかりと楓を捉えて離れない。
「あの……、!」
いいかげん手を離してもらえないかと抗議に顔を上げて、目に飛び込んできたその風貌に、息を呑んだ。
枝都に生まれて十九年。中町の澤野やに移って約十二年。忠相寺の藤まつりの客は枝都中から集まると言われているが、目の前のこの人物ほど際立って目を引くひとはいないだろう。
いや、見たことがない。
彼は、楓よりも十歳は年上だろう男だった。
だが、その髪は、白い。
白髪というよりも銀に輝く髪は陽に透けて、薄い黄金色にも見える。髷を結うには長さが足りないのか、垂らしたそれは肩のあたりまでしかない。先が緩やかに跳ねているさまは、無造作だけれどしっくり馴染んでもいる。肌の色は抜けるように白くて、その端正な顔に嵌まる両の瞳は、透明な藤の色をしていた。
あしはらの者とかけ離れた顔立ちのその男は、どういうわけか楓にひどく驚いているようだった。
(南蛮のひと……?)
綺麗なひとだった。
あしはらの西の端に、南蛮人が多く住む奈賀崎という場所があると聞く。枝都にも時折、ごくたまにだが南蛮人が姿を見せることがある。
彼は食い入るようにじっと楓の顔を見つめている。あしはらの娘がぶつかったことが、そんなにも珍しいのだろうか。
男の手が不意に離れた。楓は急いで手を引っ込める。
あたりを見遣る男。そうして何故か再び、彼は引っ込めた楓の手をわざわざ摑んできた。
「あの。なにか?」
虚勢を張って声を出すものの、見ず知らずのひとからの不躾な振る舞いに腰は逃げている。
気味の悪さに、膝も震えてきた。
なのに、どういうわけか無理やりに手を振り払うことができない。
震えそうになる声を愛想笑いでおし隠す楓に、それでも手を離し、再び手首を摑む、を繰り返す男。
(やだ……。このひと、頭おかしいんじゃない?)
もしや取って喰われるのでは。
南蛮人は陸の生き物の肉を食べると誰かが話していた。
いよいよ身の危険を感じたとき、彼はすっと後ろを振り返った。
「澤野やの者か」
(……え。こっちの、ひと?)
男の唇からこぼれた流暢なあしはらの言葉に、楓の肩からほんの少しだけ力が抜けた。てっきり、南蛮の言葉が出てくるとばかり思っていた。
「ええ、そ、そうです、けど……」
営業用の笑みを貼り付けて答えると、言い終わる前に彼は踵を返し、楓の手を摑んだまま澤野やへと向かった。
「店主。店主はいるか」
「―――はい。どういたしました、お兄さん」
奥から辰吉が顔を出した。男に手を摑まれたままの楓に、おやという顔をする。
「うちの者が、なにかご迷惑でも?」
「いや。むしろその逆だ。この娘、しばらく借り受けたい」
「……。はェえッ!?」
一瞬の沈黙のあと、年頃の娘らしくない声を思わずあげてしまった楓。しかし、店にいる客も辰吉も、そして男もまったく気にした素振りを見せない。
「困りましたな。いまちょうど忙しい時期なんで、あまり長い時間は」
「って。ちょ、お父っつぁん、なに言ってんの、そこは普通断るでしょ!」
「暮れ六つ(午後七時三十分頃)あたりには帰そう」
「夕七つ(午後四時三十分頃)の鐘の前には帰していただきたいのですが」
「判った」
「ちょ……ッと。なに言ってるのよ、わけ判んない。あたし行くこと前提なの? だって、せっかくのかき入れどきなのにあたしがいないと!」
楓がくるくる飛ぶように接客をしても、この時期は次から次へと店に客は訪れる。
当の本人の頭上でのやりとりに、置いていかれた楓は抗議の声をあげたのだが。
「だからさっさと用事済ませて早く帰ってくればいいだけだろ」
と、彼はどうでもよさそうに返してくる。
「用事って。―――え? なにそれ、どんな用事だってのよ、どういうこと、勝手に話を進めないでよ。あたしこのひと知らないし! ねえ、お父っつぁんたら!」
楓に答えることなく、目の間で辰吉は商品を手に取った他の客の応対に入ってしまう。
くい、と手を引っ張られた。
「行くぞ。時間がない」
「行くぞって、そんな」
わけが判らない。
なにが起きている?
どうして辰吉はいきなり現れたこの南蛮風味の男を見ても驚くことなく、まして不躾にもしばらく借り受けたいなどというぶっとんだ発言を咎めもせずほいほい受けてしまうのか。
ひと通りの多い道を、異性に手を引かれる楓。
未婚の男女――少なくとも楓は未婚だ――がこんな往来で手をつないでいるだなんて、行儀も悪いし恥ずかしいことこの上ない。
手を離したら楓が逃げだすと判っているのか、彼は摑む手を緩めようとしない。
せめて知り合いに見つかりませんようにとひたすら胸の内で手を合わせるしかなかった。
ちらりと眼差しだけを上げ、男を窺う。
後ろからは滑らかな頬の線が見えるだけで、いまどんな表情をしているのかは判らない。
(やだなもう……怒ってるのかしら)
先程ぶつかったことに腹を立てて、罰でも与えるつもりだろうか。
だが彼は、迷惑はかけていないとはっきりと言っていた。むしろその逆だ、とも。だったら、どうして無理やりに連れ出されなければならないのか。
判らない。
初対面のはずなのに――少なくともいまのやりとりからはそう感じた――、辰吉はなんの疑念もない様子で男の言い分を聞いていた。
ありえない。
信じられなかった。
いったい、なにがあったのか。
自分を接客から外すなど、いまが一年で一番のかき入れどきなのに。
あらかじめ決められていた台詞のはずはないのに、まるでそんなふうにするりと話が進むから、どうしても暗い考えが揺らめいてしまう。
(―――まさか、……ね)
背筋が、うそ寒くなる。
自分はまた、どこかに売られてしまうのか。
そんな思いが頭をよぎる。
十二年ほど前、同じようにこうして手を引かれ、澤野やへと連れられた記憶が思いを揺さぶってくる。
(違うよ……まさか。そんなはずない)
辰吉が追いかけてくる気配はない。内所(店の居間)にいるお佐和が異変を察して呼び止める声も、ない。
大丈夫。
自分は、澤野やの貴重な戦力だ。店には借金が少しあるが、お金のことで自分を手放そうとするようなふたりではない。
(大丈夫だよね? そうだよね亨さん……)
胸に呼び起こした許婚の明るい笑顔に、楓は声にならない声で助けを求めるしかなかった。