「聖女の祈りなど、飾りだ」と婚約破棄されたので、明日の朝は隣国で祈ります ~王都だけ、夜が明けなくなりました~
「聖女の祈りなど、飾りだ。妹でもできる」
王太子ギスランは、私の妹の肩を抱いてそう言った。夜会の広間で、蝋燭は全部ついている。楽の音が途切れ、絹の衣擦れさえ止まり、広間中の目がこちらへ向く。妹のソランジュは二十二、私の腕の中で育った子である。今夜は、私の見たことのない甘い香をまとっている。
「父上の印もある」
破棄状が、磨かれた卓の上を滑って来る。紙の擦れる乾いた音が広間の静けさを裂き、妙に大きく耳へ残る。王の印は赤く、灯を映して鈍く光っている。その下には、真実の愛、と書いてあった。
「ギスラン殿下。妹は、聖女見習いを二年で辞めております」
「祈りは祈りだ。唱えれば昇る」
「殿下。唱えれば、と仰いました」
「そうだ。千年、昇らなかった朝があるか?」
「ギスラン殿下。ございません」
無い。私が名を唱えなかった朝など、これまで無い。それは、殿下の言うとおりである。
私はオデット、二十八。暁の聖女を十年務めている。
千年前の女神の約束で、王都の朝は、暁の聖女が夜明け前に王の名を唱えてはじめて昇る。大陸に王は七人。唱えた順に、七つの王都へ朝が来る。
千年、この国ヴェルデンの王都が一番だった。朝はヴェルデンから、と王家は言う。川向こうの北の王都ノルディアが、いつも最後である。
祈れば昇る。毎朝、欠かさず昇ってしまう。だから飾りに見える。そこは、殿下の言うとおりだ。
「お姉さま、あたしにも唱えられるもの」
私は妹の手を見た。白い、何も無い手である。小さいころ、その手を引いて市場を歩いた。人波の中、ほどけないように絡んできた指の温かさを、私の掌はまだ覚えている。
「ソランジュ。大聖堂の露台は、冷えますよ」
「ギスラン様が、毛皮を貸してくれるもの。お姉さま、意地悪しないでよ」
「ソランジュ。意地悪をしているのではありません。これは務めです」
祈りは、立っている王都の王の名から始めねばならない。声は空へ昇っても、宛名は足元の土に結ばれる。宛名を替えたければ、隣の王都に立つしかない。
「ギスラン殿下」
「何だ?」
「では、明日の朝は隣国で祈ります」
殿下は鼻で笑う。蝋燭の火が、その息で細く揺れる。広間では、誰も咳さえしない。
「好きにしろ。祈りなど、隣国でしようが同じだ」
「ギスラン殿下。宛名を、替えるだけです」
「北の連中に朝をくれてやるつもりか? つくづく物好きな女だ」
「ギスラン殿下。朝は、宛名のある方へ昇るものです」
殿下が、妹をさらに引き寄せる。妹の香が、また匂う。小さいころ、陽を浴びた髪からしていた匂いは、もうどこにもない。
「だって、明日の朝はあたしが唱えるんだもの」
「ソランジュ。露台の鍵は、扉に掛けておきます」
妹が、首を傾げる。
「ねえ、お姉さま。どこへ行くの?」
「ソランジュ。川向こうです。今夜のうちに」
「橋は、暗いんだから」
「ソランジュ。灯を持って行きます」
妹の声が、少し小さくなる。静まり返った広間で、蝋燭の芯が爆ぜる音まで聞こえる。
「お姉さま、ちゃんと帰って来るでしょう?」
「ソランジュ。宛名が、決めます」
妹が、殿下の腕の中で笑う。私は広間を出た。扉が閉じる寸前、背中で楽の音が戻る。厚い扉を隔てた旋律は、遠い雨のように聞こえる。
大聖堂の扉には、女神の言葉が彫ってある。朝の来ぬ王は、王ではない。殿下は毎朝、この扉をくぐる。足を止めたところを、私は見たことが無い。私は指で、深い彫りの溝をなぞる。石は、夜の冷たさを抱いている。
眠っている王都を、セーヴ川へ下りる。石畳が、靴の底から冷える。左の掌を開いた。朝焼けの色の印が、夜の中でも薄く温かい。女神の印である。これを持つ者だけが、聖女と呼ばれる。十八の朝、目を覚ましたらそこにあった。誰にも見せたことが無い。見せる相手も、居ない。
橋の南のたもとに立つ。対岸に、ノルディアの灯が並んでいる。川の水の匂いが、湿った石の匂いと混じり、夜の底から上がって来た。
◇
石の橋は長い。真ん中に、国境の標が立っている。石に彫られた二つの紋は、夜目には見分けがつかない。私はそれを跨いだ。靴の音が、川の上で一つ、乾いて鳴る。
北のたもとで、門番が灯を上げる。濡れた兜に、赤い光が浮く。
「暁の聖女どの……こちらの岸へ、いったい何の御用です?」
「北の門番の方。王へのお目通りを願います」
「自分が、すぐお起こししてまいります」
起こすまでもなかった。灯を提げて、若い王が坂を降りて来る。ノルディアの王レナート。名だけは、毎朝唱えている。黒い髪を後ろへ流し、目の色は、夜明け前の空に似ている。
「十年、川向こうで祈るあなたを見ていた」
声は、低くて静かである。私は、川向こうの露台を思った。夜明け前、そこに立つ私を見る者は、王都に一人も居ない。皆、眠っている。
「ノルディア王、レナート様。どうか北の岸で祈らせてください。宛名は、あなたの名から始めます」
「見ていただけの十年に、朝が来るのか?」
真顔である。灯に照らされた口元も動かない。冗談だと分かるまでに、少しかかる。
「レナート様。必ず来ます。宛名は、私が申し上げます」
「私の岸で、朝を迎えよう」
「レナート様。はい」
王は、川べりまで私を連れて行った。北の岸の石は、南の岸の石より角が丸い。水が、足元で低く鳴る。空の底が、灰色になる。私は東を向く。袖の中では、左の掌だけが温かい。
「レナート様。少しだけ、下がっていてください」
「なぜだ?」
「レナート様。宛名を申し上げるあいだ、誰かがそばに居るのは、これが初めてなのです」
王は、少しだけ下がった。それ以上は下がらない。灯の輪から外れても、長靴の先は私と同じ冷えた石の上にある。
「女神よ。朝を、宛名の順に。ノルディアの王、レナート」
残る五つの名を、いつもの順に唱える。ヴェルデンの王の名は、唱えない。名を一つ唱えるごとに、遠い都に朝が一つ昇る。唱え終えた喉が、冷えている。左の掌の印は、そこだけ朝を知っているように温かくにじむ。
朝日は、川のこちら側だけに昇った。
北の岸に、声が上がる。この都に一番の朝が来たのは、初めてのことだ。窓が次々に開き、鐘が鳴る。誰かが泣いている。光は、私の背中から来て、川の真ん中で切れた。鐘の音だけが暗い対岸へ渡っていくが、向こうはまだ夜の底にある。
「一番の朝は、こういう色か?」
「レナート様。いつもの色です」
「いつもの色を、千年待った」
「レナート様。北の朝は、いつも、これより遅かったのですか?」
「川向こうの朝を見てから、ようやくこちらへ来る。毎朝、そうだ」
王は笑わない。笑わないまま、私のそばへ戻る。
◇
王都は夜のままだった。
昼になっても、対岸の空には星が出ている。こちらの岸では鳥が鳴き、焼けた麦の香ばしい匂いが風に乗る。
橋の真ん中に、朝と夜の境が立っていた。
王都の民が、橋を渡って来る。境を跨いだ者から、まぶしそうに目を細める。暗がりに隠れていた頬の色が、朝の下へ浮かぶ。先頭の老女が、私の袖を掴む。皺の手が、温かい。
「聖女さま。朝が、橋の真ん中で止まっとるよ」
「お婆さま。どうぞ北の岸へ。朝は、こちらにございます」
老女が、袖を離す。王が、その後ろへ声を掛ける。
「橋を渡って来た者には、朝と麦粥を」
「レナート様。麦粥は、宛名には入っておりません」
「私の岸で出す粥だ。私が決める」
「レナート様。……ありがとうございます」
湯気が、橋のたもとに立った。麦の甘い匂いが、朝の側へ広がっていく。城門の外は、どこも朝である。ただ、いちばん近い朝が、橋の向こうにある。列は、昼のあいだ途切れなかった。
暗い岸から、松明が橋へ上がって来る。硬い靴音と鎧の擦れる音が、川の上に響く。標の手前で止まった。殿下と、兵。松明の火だけが、夜の側で赤い。
「戻れ、オデット。戻って祈れ。命令だ」
「ギスラン殿下。王の名で祈るのが務めです。あなたは、王ではありません」
「たかが飾りに王都を取られてたまるか。弓を――」
「聖女に矢を向けるな。次の聖女を女神が選ぶまで、七つの王都すべてが夜になる」
殿下は、境を跨がない。靴の先は境の石の手前で止まり、その顔は松明の赤さの中にある。兵が弓を下ろす。弦が、低く緩む。
「殿下。境を跨げば、こちらに朝はあります」
「跨いでたまるか。北の土だぞ」
「ギスラン殿下。朝は、土を選ぶものではありません」
「明日も妹が唱える。今度こそ、明日には昇る」
「ギスラン殿下。どうか、明日の朝をご覧ください」
松明が、暗い岸へ戻っていく。境の手前の石に、火の煤が残る。
二日目の夜明け、私は北の岸で二度目を唱えた。川べりの石はまだ冷たく、吐いた息が白く流れていく。
「女神よ。朝を、宛名の順に。ノルディアの王、レナート」
五つの名。ヴェルデンは、唱えない。対岸の大聖堂の露台に、小さな影が両手を上げているのが見える。こちらの空は明るみ始めているのに、向こうの夜は動かない。影は長いこと両手を上げたままでいる。それから、影は両手を下ろす。
昼、妹が橋を渡って来た。境を跨いだ瞬間に、光を避けるように目を細める。巻いた髪が、ほどけかけている。露に濡れた裾は重く、指先が冷えて赤い。
「お姉さま、どうやるの? あたし、ちゃんと唱えたのに」
「ソランジュ。女神が聞いているのは、言葉ではなく、唱える者です」
「露台、すごく寒かったのよ」
「ソランジュ。十年、私も寒かったです」
妹が、口を尖らせる。ほどけかけた髪が、頬に貼りついている。
「だって、ギスラン様が玉座を橋のたもとまで運ばせたのに、それでも駄目だったの」
「ソランジュ。冠を受けた町が、王都です。玉座は、椅子です」
「椅子……。でも、ギスラン様、座ってたわ」
「ソランジュ。少なくとも、座り心地はよかったはずです」
妹は、私の顔を見た。朝の光の下で、長い睫毛が小さく震えている。
「あたし、印が無いの?」
小さい声である。私は左の掌を開く。朝焼けの色が、陽の下で淡くにじんでいる。妹が両手を開いた。何も無い。妹の手は、市場で引いたときのままの、白い手である。私はその指を、印のある掌でそっと包む。冷えた指が、昔と同じ温かさを返す。
「ソランジュ。帰って、今はお眠りなさい。夜のうちは、王都も眠れます」
「あたしは、ただ、お姉さまのものが欲しかっただけなの」
「ソランジュ。知っています」
「お姉さま、あたしのこと、怒ってないの?」
「ソランジュ。私は、宛名を替えただけです」
妹は私の掌から指を抜き、境を跨いで、暗い岸へ戻っていく。跨ぐとき、一度だけ、朝のほうを振り返った。ほどけかけた髪が、朝と夜の境で細く揺れる。
◇
三日目の夜明け前。対岸から、灯が一つ、橋を渡って来る。星の残る暗がりを、灯がゆっくり進んで来る。
王だった。徒歩で、供は灯持ちが一人。杖の音が、石の橋の上で一つずつ鳴る。少し後ろに、殿下が続いている。殿下は橋の真ん中まで来て、止まる。王が、手で制したのだ。
レナートが、黙って私の隣に立った。外套の袖が触れ、そこだけ川風が遮られる。
「余の名を、唱えてくれぬか?」
「陛下」
王が、顔を上げる。灯に照らされた頬の皺が、深く影を落とす。私は、川向こうの暗い都を見る。祈りを唱えてきた露台も、閉ざされた窓も、まだ星明かりの下に沈んでいる。
「朝は、隣の国から差し上げます。この国は、七番目に」
「なぜ、ヴェルデンを後へ回すのじゃ?」
「陛下。千年、ヴェルデンが一番だったのは、聖女がヴェルデンに立っていたからです。順番は、宛名を言う者が決めます」
「そなたの祈りを、余は見に行かなんだ」
「陛下。夜明け前ですから」
王が、杖で石を叩く。硬い音が、橋を走る。
「余は、印を押しただけじゃ」
「陛下。印は、押した方のものです」
「……そうか。そうであろうな」
「陛下。橋を、戻られますか?」
「戻る。余の都じゃ」
王は、橋の上の息子を振り返った。杖を握る指は白く、夜明け前の風の中でも、その背はまっすぐに伸びている。
「王太子ギスランを廃する。印は余が押した。余の咎じゃ」
「父上!」
声が裏返っている。高い声は夜の岸へ響き、暗い窓の列に吸い込まれる。レナートが、王のほうへ向き直る。
「陛下。橋を渡られたのは、千年で初めてだ。……麦粥を」
「北の王よ。粥は、後にしてくれぬか?」
「後にする。朝が先だ」
東の空が、黒から藍へ、藍から薄紫へと色を変える。左の掌の温かさが増す。私は、東を向いて立った。
「女神よ。朝を、宛名の順に。ノルディアの王、レナート」
五つの名を、冷えた喉から空へ送る。そして、最後に。
「ヴェルデンの王、アンセルム」
千年で初めて、七番目に呼ばれる名である。北の岸に朝が来る。王が、杖をついて橋のほうへ歩き出す。標のこちら側で止まり、対岸を見る。朝の光が、杖を握る手の上へ静かに差している。
王都に、七番目の朝が昇った。
境が消える。標に、両側から朝が当たっている。川の水も橋の石も同じ色に照らされ、夜が残していた冷たさが薄れていく。王と灯持ちと殿下の背中が、橋を戻っていく。誰も、振り返らない。
レナートが、私を見る。夜明けの光の中で、その目は澄んだ薄青をしている。その掌が、私の前へ静かに差し出される。
「オデット。明日の朝も、その次の朝も、私の名から始めてくれるか? 北の妃として」
私は、宛名を替えた。印のある左の掌を、その手に重ねる。彼の掌は、昇ったばかりの朝よりも温かい。
「では、明日の朝も、レナートの名からです」




