失われる前の光
鬱物語を題材に書いてと言いました。
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なぜ私は「鬱作品」に惹かれるか
雨杜結依 さんのエッセイに多大な影響を受けています。
# 失われる前の光
読み終えた画面は、しばらく白いままだった。
最終話の下に並ぶ感想欄の入口も、評価の星も、次に読む作品を勧める小さな枠も、全部ひとつの平たい光になって、夜の部屋の中に浮いていた。私はマウスに指を乗せたまま、閉じるための小さな印を見ていた。押せば終わる。押せば、この物語の人たちはもう苦しまない。少なくとも私の前では。
なのに、閉じられなかった。
胸に残っていたのは、最後の別れでも、壊れた街でも、誰かが間に合わなかった場面でもなかった。もっと前の、何でもない食卓だった。登場人物たちが、まだ何も知らない顔で、焦げたパンを笑っていた場面。片方が文句を言い、もう片方が謝るふりをして、結局二人で同じ皿から食べていた。読みながら私は、その場面を早く先へ進めたはずだった。物語が暗くなることを知っていて、その暗さに惹かれていたはずだった。
それなのに、読み終えた後でいちばん明るかったのは、そこだった。
椅子を引くと、脚が床に小さく鳴った。音はすぐに消えた。部屋の中には、パソコンのファンの低い唸りと、画面の白さだけが残った。私は息を止めていたことに気づいて、少しだけ吸った。肺に入った空気は冷たくも暖かくもなく、ただ夜だった。
暗い話が好きなの、と聞かれたら、私はたぶん曖昧に笑う。
好き、という言葉は軽すぎる。けれど嫌いではない。嫌いなら、わざわざ夜更けまで読まない。自分が何を求めているのか、うまく言えないまま、私はいつもそういう物語のページを開いてしまう。現実で誰かが壊れることなんて望んでいない。身近な人の不幸を見たいわけでもない。なのに物語の中でだけ、私は安心して絶望を見ている。
安心して、という言葉に、自分で少し嫌な気持ちになる。
数日前、美月と駅前の喫茶店に入った。
雨上がりで、傘立てには濡れたビニール傘が何本も傾いていた。窓際の席はひとつだけ空いていて、店員さんが「閉店まで一時間ほどですが」と言った。美月は「一時間あればプリンは食べられます」と真面目な顔で答えて、店員さんを笑わせた。
古い喫茶店だった。壁の時計は少し遅れていて、伝票を挟む銀色のクリップには細かな傷があった。窓の外では、駅へ向かう人たちの靴が、まだ濡れた歩道に薄く反射していた。夕方の光は雲の裏でほどけて、店内の照明と混ざり、テーブルの上を蜂蜜みたいな色にしていた。
美月はプリンをひとつ頼んだ。私はコーヒーだけでいいと言ったのに、運ばれてきた皿を見た途端、美月は当然のようにスプーンを二本取った。
「こういうのは、ひとりで食べると罪悪感がある」
「二人で食べたら半分になる?」
「罪悪感が?」
「プリンが」
美月は笑って、カラメルの濃いところを私の側へ寄せた。私はスプーンを受け取った。銀色の柄が少し冷たかった。表面に刺したところから、プリンはゆっくり崩れて、照明をやわらかく割った。
その時間は、何の意味も持っていないように見えた。
美月が職場のコピー機の調子を愚痴り、私が隣の部署の人の名前をいつも間違える話をして、二人でどうでもいいことで笑った。コーヒーは少し苦くて、プリンは思ったより甘かった。閉店時間の札が入口の近くで揺れていたけれど、誰も急かさなかった。外を通る電車の音が、窓越しに一度だけ低く響いた。
何気ない、と呼ぶには、あまりにも壊れやすい時間だったのだと、今なら思う。
「来月からさ、しばらく向こうに行くことになった」
美月は、カップを置くのと同じ軽さで言った。
向こう、というのは海沿いの支社のことだった。前に一度だけ話していた。人手が足りないらしい、誰かが行くかもしれない、たぶん自分ではないと思うけど。そんなふうに。私はその話を、仕事の愚痴の一部として聞いていた。現実になる前の予定は、いつも少し遠い。
「どれくらい?」
「まだ分からない。半年か、一年か。長くはないと思う」
長くはない、という言葉は、短い平穏を保証しなかった。ただ、終わりの形をぼかしただけだった。
私は何か言おうとして、スプーンの先についたカラメルを見た。そこに小さな照明が映っていた。丸くて、頼りなくて、少し動くと消えた。
「そっか」
口から出たのは、それだけだった。
美月は「うん」と言って、残りのプリンを半分に切った。私の分を多めにしてくれたのか、ただ崩れただけなのか分からなかった。分からないまま、私はそれを食べた。甘さが舌に残って、コーヒーを飲んでもすぐには消えなかった。
そのとき私は、悲しかったのだと思う。でも悲しいと言えば、何かが大げさになる気がした。美月は死ぬわけではない。連絡だって取れる。電車とバスを使えば会いに行ける。だから、これは喪失ではない。そう言い聞かせるための理由はいくつもあった。
けれど窓際の席で、閉店までの一時間が半分になり、さらに半分になっていくのを見ていた私は、その理由のどれにも触れたくなかった。
あの物語の食卓を思い出す。
焦げたパンを笑っていた二人は、その後に何が起きるか知らなかった。知らないから笑えたのではない。知らないまま笑っていた時間が、後から見ると眩しすぎるのだ。私は暗い結末を読みたかったのではなく、結末に照らされて初めて見える、あの何でもない皿の白さを見ていたのかもしれない。
画面の中の絶望は、安全だった。
ブラウザを閉じれば、部屋に戻れる。布団に入れる。明日の予定も、洗っていないマグカップも、未読の通知も、そのまま残っている。物語の中の誰かが失ったものは、私の現実を直接壊さない。だから私は、そこまで近づける。近づいて、失われる直前の幸福を、目を逸らさずに見られる。
現実では、そんなふうに見られない。
美月が「また来ようね」と言ったとき、私は頷いた。次があるかどうかを確かめるみたいに強く頷いてしまって、自分で恥ずかしくなった。美月は気づかなかったふりをした。あるいは、本当に気づかなかったのかもしれない。どちらでもよかった。その曖昧さまで含めて、私は大事にしたかった。
帰り際、レジ横の小さなランプが、ガラスケースに反射していた。プリンの空になった皿を店員さんが下げる。伝票に印字された時刻は、壁の時計より少しだけ正確だった。店を出ると、雨の匂いはほとんど消えていた。
家に帰ってから、私は暗い物語を読み始めた。
誰にも言わなかった。美月にも、もちろん言わなかった。あなたが遠くへ行くから、私は失われる前の光を探す話を読んでいます、なんて言えるはずがない。そんな言葉は重すぎるし、たぶん正しくもない。私は美月を物語の登場人物にしたいわけではなかった。現実の彼女に破滅してほしいわけでも、私たちの関係に悲劇の形を与えたいわけでもなかった。
ただ、あの喫茶店の一時間が、もう同じ形では戻らないことだけは分かっていた。
その時間が何だったのか、私はまだうまく言えなかった。プリンの甘さや、濡れた傘や、どうでもいい会話は、そのときにはただそこにあっただけだった。けれど、終わりみたいなものが少し近づくと、何でもなかったはずのものが、急に見える。そこにあったのだと、今さら気づく。気づいたところで、何かを止められるわけでもないのに。
私はようやく、画面右上の印を押した。
白い光が消えて、黒くなった画面に自分の顔が映った。泣いてはいなかった。ひどく落ち込んでいる顔でもなかった。ただ、何かを見送った後のような顔をしていた。
スマートフォンが震えた。
美月からだった。
『この前の店、プリンおいしかったね。向こう行く前にもう一回行けたら行こう』
短い文章の最後に、猫が手を振っているスタンプがついていた。私は返信欄を開いた。行こう、と打てばよかった。すぐに送ればよかった。けれど指は動かなかった。
うれしかった。たぶん、それだけでよかった。
でもそのうれしさの中には、もう次が最後かもしれないという薄い影が混ざっていた。最後ではないかもしれない。何度も会えるかもしれない。半年後に美月が戻ってきて、別の店で別の甘いものを分けるかもしれない。私はそういう明るい可能性を、ひとつも否定したくなかった。
それでも、今この部屋で光っている通知は、いつか消えるものとして光っていた。
私は返信欄の文字を消して、スマートフォンを机に伏せた。カーテンの隙間から、駅の方角の明かりが細く入っていた。夜なのに、窓辺だけが少し薄い。さっきまで画面が照らしていた場所を、別の光が代わりに撫でていた。
暗い物語を読んだ後の沈黙が、部屋に残っている。
それは救いではなかった。誰かが戻ってくる約束でも、失われない保証でもなかった。ただ、何気ない会話や、半分に分けたプリンや、言えなかった「寂しい」が、消える前に一度だけ強く光るのだと知った沈黙だった。
私はもう一度スマートフォンを表にした。
返信欄は空のままだった。けれど、空であることが、少しだけ正直に見えた。言葉にすると壊れそうなものを、まだ言葉にしないで置いておく。その間にも、光は薄くなっていく。有限だから大切なのだと、そんなふうに言い切ることもできない。ただ、薄くなっていく光の形だけが、私の目に残っていた。
しばらくしてから、私は短く打った。
『行こう』
送信ボタンを押すまでに、また少しだけ時間がかかった。
かなりラブい物語になりました。
小説の種から設計書の段階で、この骨格ができていて、かなりびっくりしています。




