灰の少年と、三百年の魔女
長編プロットの抜き出し短編です。
若い人とか、優しい人にこういうの読んで欲しい…。
「……また、バカがいる」
地下スラムのさらに底。廃棄された配管の隙間からわずかに漏れ出る蒸気の向こうで、その少女は忌々しげに呟いた。
豪奢だがどこか時代遅れの黒いドレスに、人形のように整った愛らしい顔立ち。銀糸のような髪が、湿ったスラムの風にわずかに揺れる。外見だけならどこぞの貴族の令嬢だが、彼女の瞳に宿る冷ややかな光は、とうてい十二歳の子供が持つべきものではなかった。
彼女の名前はミア。
徹底した効率主義を信奉し、三百年の時を生き延びてきた魔女である。
そんな彼女の視線の先には、一人の『老人』がいた。
いや、正確には老人ではない。灰色の髪に深く刻まれたシワ。外見年齢は四十代後半から五十代。だが、ミアの魔眼を通せば、その肉体の実年齢がたったの『十六歳』であることがはっきりと読み取れた。
「……うぅっ……」
「大丈夫だ。痛いの、もうすぐ治るからな」
煤にまみれた少年が、放っておけば確実に失明に至る熱病に浮かされ苦しそうに呻いている。
灰色の髪の男――アルトは、少年の胸元に手をかざしていた。その手首から、目に見えない砂時計の砂がこぼれ落ちるように、彼自身の「寿命」が流出していくのがミアには見えた。
魔法は、自身の未来の時間(寿命)を強制徴収されることで発動する。
この世界において、才能とはすなわち「命価効率」のことだ。
ミアのように高効率な天才であれば、かすり傷を治すのに一ミリ秒(0.001秒)の寿命で済む。
だが、眼下で汗を流しているあの男の命価効率(才能)は、絶望的に劣悪だった。
少年の熱病を治すためだけに、アルトの肉体からごっそりと、何年分もの寿命が削り取られていく。
魔法を使うたびに、アルトの体は一年、また一年と「先へ進んで」いく。本人だけが取り残されたまま、肉体だけが未来へ駆け足で走っていくように。
彼の傍らには、鉢植えの奇怪な植物があった。
【命喰みの睡蓮】。寿命を吸い上げて魔力結晶(華)に変えるバイオ・ガジェット。アルトが寿命を注ぎ込むたび、睡蓮には透き通るような美しい華が五つ咲く。
その睡蓮の持ち主である悪徳仲介屋の男――ヴィランは、咲いた華のうち四つを躊躇なくむしり取り、どこかの富裕層へ横流しにするためのケースにしまった。残りのたった一つの華の魔力が、這いつくばる少年の熱病をようやく散らした。
「……相変わらず、バカだな。お前は」
ヴィランが嘲笑う。
アルトが直接魔法を使えば、命価効率が最悪なせいで五十年の寿命が吹き飛ぶ。だがヴィランの睡蓮を通せば、一年分の寿命で済む。
ヴィランは手数料込みで、アルトから「五年の寿命」を奪った。彼は四年分の寿命を不正にピンハネしている。
アルトも、そんなことはとっくに分かっている。
それでも、誰かが助かるならと、彼は自ら進んで搾取され続けている。
かつて、たった一人の妹を事故から救うために、二十五年の寿命をためらいなく差し出し、家族の重荷にならないようスラムへ身を落としたあの日のように。
結果として、彼は本来ならば青春の只中にいるはずの十六歳で、四十代の老いた肉体を晒すことになった。
「終わったよ。もう痛くない」
アルトは少しだけ増えた目尻のシワを寄せて、助かった少年に優しく微笑みかけた。
もう帰れない、温かい食卓の記憶を反芻するように。
暗がりで見下ろしていたミアは、ギリッと奥歯を噛み締めた。
(……理解不能な非効率だ。なぜ笑える?)
三百年の間、彼女は見てきた。
百年前の錬金術師も、百八十年前の王も、二百四十年前の子供も。善意で他者を救おうとした者はみな、最後には損をして、笑いながら死んでいった。
愛する者が老いて死ぬ絶望から心を守るため、ミアは感情を切り捨て、冷徹な計算機として生きてきた。他者から時間を搾取し、自分の未来の時間(残機)に積み重ねる。そうやって百八十年分の余剰寿命を抱え込むことで、彼女は圧倒的な強さを保ち続けている。
だからこそ、アルトの自己犠牲が、目障りで仕方がなかった。
「……おい、ヴィラン」
気付けば、ミアは暗がりから一歩踏み出していた。
漆黒のドレスの裾を翻し、小さな革靴がドスッと泥濘に着地する。
突然現れた十二歳の愛らしい少女に、ヴィランは一瞬目を丸くしたが、すぐに蛇のような笑みを浮かべた。
「おや、どちらの迷子のお嬢ちゃんかな? スラムは子供がひとりで歩く場所じゃあ——」
「黙れ。三秒以内にその睡蓮を置いて消然せろ。さもなくば、お前の残り寿命を三文字のパスワードにして網膜に焼き付けてやる」
冷たい声だった。冗談の響きは一切ない。
ヴィランの顔から余裕が消えた。彼はこの少女が何者かを知らないが、直感的な生存本能が「やばい」と警報を鳴らしていた。
だが、悪辣な仲介屋はタダでは引かない。ヴィランの袖口から、不可視の魔力刃が放たれた。それは、アルトをかばうように前に立ったミアの、小さな背中を正確に狙っていた。
(……遅い)
ミアの途方もない演算能力によれば、この不意打ちを防ぐための防壁展開に必要な寿命は、わずか0.1秒。
余裕で弾く。そう判断し、指先を動かそうとした、その時だった。
「——危ないっ!」
ドンッ! と、背中から強い力で突き飛ばされた。
ミアの小さな体が前にすっ飛び、ドロドロの泥水の中に盛大にダイブする。
ばしゃん、という情けない音。顔面から泥に突っ込んだミアが、何が起きたのか理解できずバチバチと瞬きをする。
振り返ると、そこにいたのはアルトだった。
彼がミアを庇い、前方に巨大な魔力防壁を展開していたのだ。
しかし、彼の劣悪な命価効率でそのサイズの防壁を展開すれば、どうなるか。
バリンッ! とヴィランの刃を弾き返した直後、アルトの体が激しく咳き込み、崩れ落ちた。
その顔には、さらに深いシワが刻まれていた。髪には白いものが混じり、ただでさえ老けていた姿が、一気に「五十代」へと変貌していた。
たった一秒の防御のために。アルトは自分の寿命を、さらに『五年分』も前借りして焼き切ったのだ。
「げほっ、ごほっ……っふぅ。……なんだヴィラン。子供相手に、大人気ないぞ……」
膝をつきながらも、アルトはヴィランを睨みつけた。
泥まみれになって呆然としているミアの横顔を見て、アルトはホッと息をつく。
そして、ひび割れた太い手で、ミアの泥だらけの小さな頭を、ポンポンと乱暴に撫でた。
「……怪我、なくてよかった。お前、まだ子供だろ。大人が子供を守るのは、当たり前じゃないか」
ふにゃりと、アルトは人の良さそうな笑みを浮かべた。
ミアは、言葉を失った。
ぽかんと口を開けたまま、アルトの老いた顔を見つめる。
三百年間、誰からも守られることなんてなかった。彼女に触れる者はみな、彼女を化け物として恐れるか、利用しようとするか、あるいは先に老いて死んでいくかだった。
無償の保護。
ただ、「子供だから」という理由だけで、自分の命(五年間)を投げ打ってポンコツな大人が助けてくれた。
ミアの胸の奥で、カチン、と何かが弾ける音がした。
三百年間、分厚い氷で覆い隠してきたはずの感情の防壁が、派手な音を立てて決壊した。
「……っ、この、大バカ者がぁぁぁぁっ!!!」
ミアの金切声が、スラムの地下に響き渡った。
十二歳の顔を真っ赤にして、彼女は泥まみれのままアルトの胸ぐらを(背が低いので必死に背伸びをして)掴みかかった。
「私が守られるだと!? ふざけるな! 私の寿命で防げば瞬き一回分にも満たなかったんだぞ!! お前のその底辺のクソ命価効率で五年間もドブに捨てて、何が『当たり前じゃないか』だ! この大マヌケ! すっとこどっこい!!」
ポカポカと、小さな拳でアルトの胸を叩く。痛くはないが、勢いがすごかった。
アルトは目をぱちくりとさせている。「えっ? あ、ごめん……いや、でも危なかっ……」
「言い訳をするな! 私に命をかけて守ってやったなんて、最悪の負債(恩)を押し付けやがって!!」
目じりに涙まで浮かべて怒り狂う幼女(三百歳)を見て、ヴィランが忌々しげに舌打ちをした。
「……チッ。どっちも狂ってやがる。仲介の手数料を取り損ねたな」
ヴィランは己の退路を確保しようと後ずさる。
だが、アルトがふらつきながら立ち上がり、それを遮った。極太の魔力経路を持つがゆえに、命を削りさえすれば彼もまた、圧倒的な出力を出すことができる。
ヴィランは忌々しげにアルトを睨んだ。
「お前も同じだろ。極太の経路、命価効率は最悪。俺と同じ、どうしようもない欠陥品だ」
「……」
「なら分かるだろ。どうせ搾取される。どうせ損をする。なら、先に搾取する側に回った方が、合理的だ。違うか?」
男——ヴィランの顔面から、歯が数本吹き飛んだ。
悲鳴を上げる間もなく、靴底が顔面を踏みつけ、床板にめり込ませる。
「どうして俺を、狙った……っ、俺だって、ただの医術じゃ妻は救えなかったんだ! お前だって分かるだろ、どうしても救えない誰かがいたら——!」
ヴィランの悲痛な叫びを、アルトの靴底が物理的に遮った。
めりりと、鼻梁がへし折れる不快な音が響く。
「分かるよ。痛いほどにな」
アルトの声には、糾弾よりも深い、暗い同調があった。魔法医術を持たざる者が、愛する者を救うために泥を啜り、他者を犠牲にする悪鬼へと堕ちるその絶望が。
彼らは合わせ鏡だった。
「だから聞いてるんだ。——なあ、それで延命させたお前の奥さん、最後は幸せそうだったか?」
ヴィランの顔から、すべての表情が抜け落ちた。
痛いところを突かれた。彼が一番見たくなかった現実。他人の犠牲の上に成り立つ延命作業の中で、妻が最後にどんな顔をして死んでいったか。
「俺には分からない。でも……他人の命をすすって生き残ったお前の顔、全然幸せそうに見えないんだけど」
それが、引導だった。
ヴィランの心がわずかに揺らいだ、そのコンマ一秒の隙。
激怒したままのミアが、一切の容赦なく術式の構築を完了させていた。
「——【自壊して散れ、塵芥】」
冷酷な命令語。
ミアの周囲に展開された無数の極大幻影術式が一斉にヴィランをロックオンし、光の奔流となって彼を呑み込んだ。ヴィランは悲鳴を上げる間もなく光に包まれ、その全生命力を強制放出させられて、サラサラと灰になって崩れ落ちた。
そして、主を失った【命喰みの睡蓮】は、過剰な魔力流を散らして音もなく枯れ落ちた。
「……ふぅ」
ヴィランが消滅したのを見届けたアルトは、ついに膝から崩れ落ちた。
急速な老朽化が彼の肉体を蝕んでいた。しわくちゃの手の甲。白髪だらけの頭。外見年齢は九十代を優に超え、彼は今度こそ限界を迎えつつあった。
「……これで、少しは良い世界に、なるかな……」
満足そうに瞳を閉じて、灰になろうとするアルト。
だが、ミアがそれを許すはずもなかった。
彼女は泥だらけのドレスを引きずり、アルトの胸ぐらを両手でわし掴みにした。
「ふざけるな! 私に借金を押し付けたまま、お前だけ綺麗な顔して死んで逃げる気か!!」
ミアは泥だらけのドレスの懐から、まばゆく脈打つ「生体コア」を取り出し、アルトの胸に押し当てようとする。
それは、古い知人の魔女パモナナから『たった一人の適合器が見つかるその時まで』と密かに預かっていた切り札——【魔力生命転換炉】だった。
魔女の計算によれば、この炉を彼の極太の経路に埋め込めば、過去から現在まで不当に搾取された「余剰生命力」がすべて還元(還付)されるはずだった。
妹のために失った二十五年も、スラムで搾取され続けた分も、すべて。
コアが眩い光を放ち、アルトの胸に沈み込もうとする。
だが、アルトの干からびた手が、ミアの小さな手をがっしりと掴んで止めた。
「待て。……俺の中に何か得体の知れないものを埋め込む気だろ。……説明しろ」
瀕死のくせに、変なところだけ頑固なのだ。
ミアはギリッと歯を食いしばり、この世界最高の魔女にふさわしくない、ひどく泥臭い言い訳のような説明を早口でまくし立てた。
転換炉のこと。寿命の還元のこと。
「お前が嫌なら、やめる。私は三百年を生きた魔女だ。お前のくだらない意思なんか無視して、勝手に心臓に埋め込んでやることもできるけど……」
ミアは、泣きそうな顔で下唇を噛んだ。
「……やらない。そういう奴じゃないから、お前は。だから、自分で選べ。バカ男」
最後の選択を委ねられたアルトは、ゆっくりと目を開けた。
スラムの汚い天井が見える。
うまく立ち回るのが賢い生き方だ、と誰かが言っていた。その通りだと思う。彼はただ目の前の子供が泣いているのを見過ごせなかっただけで、聖人になりたかったわけじゃない。
愛する家族が「老いぼれた自分」を見て泣き崩れるのが辛くて、自ら家を出た。重荷になりたくなかったから、二度と帰らないと決めていた。
けれど、本当は。
十六歳の少年が、ずっと心の奥底に隠して、押し殺してきた未練。
「……なあ、ミア。俺さ」
「何だ」
「家には、戻りたかった」
しわがれた声だった。けれど、それは確かに十六歳の少年の、ただの我が儘な弱音だった。
ミアの瞳から、ついに大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
地下スラムに、短い沈黙が落ちた。
やがて、アルトは震える手を伸ばし、ミアの涙を拭った。そして静かに、けれど強い意志を込めて言った。
「……お前が百年を払うなら、俺はそれを受け取る義務がある。逃げるのは、なしだ」
それは、他人のために命を削り続けてきた彼が、初めて「自分のために他人の犠牲(ミアが支払う莫大な代償)を受け入れる」という決意だった。
ミアは、泣き顔のまま真っ直ぐにアルトを見据えた。冷徹な計算機だった彼女が、すべての効率を投げ捨てて一人の少年に全額をベットした瞬間。
もう、言葉はいらなかった。
パァンッ!!!
ミアが結晶を完全に押し込み、無言で術式を起動した。
莫大な光がスラムの地下を包み込んだ。それは、寿命の理への壮大な反逆。
コアが過去へと接続し、命価効率が最悪のアルトがこれまで他人のために無駄に消費してきた莫大な「余剰生命力」が、逆流して肉体に還元されていく。
シワが消え、白髪が色を取り戻す。
改変された過去の自分の声:「なんで怒ってるんだ。世界はそんなに悪くない」
泥水をすすった自分の声:「お前は何も見ていない。俺が見たものを、お前は知らない」
二つの並行する記憶が、頭の中で融合していく。泥水をすすった十六年間があったからこそ、幸せな過去の本当の価値がわかる。
光が収まったとき。
そこに倒れていたのは、元の「十六歳の少年」の姿をした、アルトだった。
* * *
「……んー……」
眩しさに目を覚ますと、そこは地上だった。
夕日が眩しい。アルトが横たわっていたのは、どうやらどこかの公園のベンチらしかった。
体を起こすと、目の前に小さな影があった。
顔の泥をきれいに拭き取り、少しだけ機嫌が良さそうに腕を組んでいる幼女。
ミアだ。
「……おはよう、バカ。よく寝てたな」
「……俺、どうなったんだ」
アルトが自分の両手を見ると、若々しい十六歳の肌に戻っていた。
ミアはふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「お前の負債(恩)は、きっちり全額『還付(帳消し)』してやった。これからは、私が圧倒的に強くて偉い、お前の公式な『保護者』だ。一生土下座して感謝しろ」
ツンと澄ましてみせるが、その耳は少しだけ赤い。
アルトは自分の肉体を確認し、それから苦笑しながら立ち上がった。
「……そっか。ありがとな」
アルトは、躊躇いもなくミアの小さな手を握った。
ビクッとするミア。
「な、ななな何をするっ! この無礼者!」
「……家、帰るか」
「……なんで私まで行くんだ」
「うるさい。来い。お前、『保護者』なんだろ?」
「……っ!」
ミアは何か反論しようとしたが、結局、アルトの大きな手に引かれるまま、大人しくついていくことにした。
三百年間、厳密に計算し続けてきた「残り寿命」の数値。
けれど今、ミアの中の計算機はどうやら壊れてしまったらしい。彼女の残り寿命は今、ただ「人並みになった」という漠然とした感覚があるだけだった。
それでいい。計算するのをやめた魔女は、少しだけ強く握り返した少年の手の温かさを、ただ黙って受け入れていた。
夕焼けの中、二人は歩く。
家の前に着く。玄関のドアが開く。
突然帰ってきた兄の「本当の顔」を見て、妹が言葉を失い、泣き出すのは、それから数分後のことだった。
(了)




