変わらない距離で
婚約したからといって、世界が劇的に変わるわけではなかった。
朝はいつも通り官庁へ向かい、
机に向かい、資料を読み、数字を整理する。
ただ一つ違うのは――
隣にいる人が、明確に「隣人」になったことだ。
「ここ、表現が曖昧です」
私は、資料の一部を指で示す。
「“柔軟に対応”では、現場裁量が広すぎます」
「では、範囲指定を追加しましょう」
レイン様は即座に修正案を書き込む。
このやり取りも、婚約前と何も変わらない。
それが、少し不思議で――
そして、心地よかった。
***
「婚約したのに、緊張しませんか」
昼休み、そんなことを聞かれた。
言ったのは、同僚の女性官僚だ。
「緊張、ですか」
「もっと距離が近くなるとか……」
私は少し考えた。
「距離は、元からこのくらいでしたので」
「……なるほど」
彼女は、どこか納得したように笑った。
「不思議な関係ですね」
「そうかもしれません」
けれど、私は知っている。
無理に感情を盛り上げなくても、
信頼は、静かに積み重なるものだということを。
***
夕方。
業務が一区切りついたところで、彼が言った。
「今日は、ここまでにしましょう」
「珍しいですね」
「疲労が見えます」
「……自覚はありませんでした」
「では、尚更です」
そう言って、彼は私の書類をまとめる。
その仕草は自然で、
気遣いを誇示するものではなかった。
「婚約者として、過保護ではありませんか」
「必要な配慮です」
淡々とした返答。
でも――
その一言に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
婚約したから特別になるのではない。
元から大切にされていたのだ。
それに、ようやく気づいただけ。




