正式婚約の障害
正式な婚約の話が出たのは、噂が落ち着き始めた頃だった。
「王府への報告も必要になります」
「そうですね」
淡々と話していたはずなのに――
その翌日から、空気が変わった。
***
「ノートン子爵令嬢、少しよろしいかな」
呼び止めてきたのは、年配の官僚だった。
改革案に反対している派閥の一人。
「ご用件は」
「率直に言おう」
彼は、わざと周囲に聞こえる声で言った。
「婚約は、控えた方がいい」
「理由を伺っても?」
「君は、レイン殿の補佐だろう」
「はい」
「女性が私情を挟めば、改革案の公平性が疑われる」
「私情とは?」
「婚約だ」
私は、静かに首を傾げた。
「私の業務内容は、数値整理と反論想定です」
「……」
「感情が入り込む余地はありません」
「だが周囲がどう見るかだ」
「周囲の誤解は、成果でしか正せません」
その場は、それで終わった。
だが――終わっていなかった。
***
次に届いたのは、実家からの手紙。
「父、ですか……」
嫌な予感は、的中する。
『婚約の件、少し考え直せないか』
文字にすると、それだけだ。
だが、行間は重い。
『相手は確かに優秀だが、家格が釣り合わない』
『今なら、別の縁も――』
私は、手紙を静かに畳んだ。
可愛げがない娘。
そう言われ続けた私が、“価値が出た”途端、惜しくなる。
滑稽だと思った。
***
決定打は、その翌日。
「ご無沙汰しております」
執務室に現れたのは、見覚えのある男。
「……ラドフォード男爵」
以前、縁談を持ち込んできた人物だった。
「驚きましたよ。婚約の噂」
「用件は何でしょう」
彼は、にこやかに言った。
「考え直しませんか」
「何を」
「あなたには、もっと“相応しい立場”がある」
「以前は、そうはおっしゃいませんでした」
「状況が変わった」
その言葉に、全てが詰まっている。
「今のあなたは、価値が高い」
「……」
「レイン殿との関係は、あなたのためにならない」
「それは、誰の判断ですか」
「私だ」
私は、はっきりと答えた。
「不要です」
彼の笑顔が、初めて歪んだ。
***
「……全部、来ましたね」
その日の夜、私はレイン様に報告した。
「家、官僚、元縁談」
「想定内です」
彼は、書類から目を離さない。
「迷っていますか」
「いいえ」
即答だった。
「私は、補佐である前に、一人の人間です」
「はい」
「誰かの都合で、立場を変えるつもりはありません」
彼は、ようやくこちらを見た。
「後悔は」
「ありません」
一瞬の沈黙。
「なら、問題ありません」
彼は、淡々と言った。
「邪魔するなら、排除します」
「……穏やかではありませんね」
「穏やかに済ませるつもりがないだけです」
その言葉に、胸が静かに熱くなった。
***
翌日。
改革案の中間報告会で、彼は公然と宣言した。
「補佐官マリエル・ノートンは、引き続き本案件を担当します」
「婚約の件は?」
「業務には関係ありません」
反論は、出なかった。
数字と成果が、全てを黙らせていた。
***
夜。
「守られている、と思いますか」
ふと、そう聞いた。
「いいえ」
「?」
「あなたは、自分で立っています」
「……」
「私は、隣にいるだけです」
その言葉が、何より心強かった。
可愛げがない。
そう言われ続けた私が、初めて対等でいられる場所。
邪魔は入った。
でも――揺らがなかった。
正式な婚約は、もう目の前だ。




