侯爵の視線
その日の会議室は、いつもより空気が重かった。
理由は明白だ。
重厚な扉の向こうに控えるのは――
ヴァルテン=クロイツ侯爵。
財政と流通に絶対的な影響力を持つ、大貴族。
王都官僚の間では「意見を通すより、機嫌を損ねないことが最優先」とまで言われる人物だ。
「入るぞ」
低く、よく通る声。
紫紺の外套を翻し、侯爵は会議室へ足を踏み入れた。
その視線が、まず上官へ、次に卓上の資料へ――
そして最後に、私へと止まる。
「……女性、か」
失望とも、単なる事実確認ともつかない声だった。
「この改革案の説明役かね?」
「いえ」
答えたのは、私ではない。
「本件の実務責任者です」
「ほう」
侯爵は、わずかに眉を上げた。
「随分と思い切った人事だ」
「能力に基づいています」
それ以上、言葉は続かなかった。
資料が配られる。
侯爵は、何も言わずに目を落とした。
沈黙。
紙をめくる音だけが、一定のリズムで響く。
――十分ほど経った頃。
「前例がない」
侯爵が、低く言った。
「はい」
「失敗した場合の責任は?」
「失敗する前提で組んでいません」
淡々と、事実だけを述べる。
侯爵の視線が、初めて私を正面から捉えた。
「大胆だな」
「必要最低限です」
会議は、それ以上荒れなかった。
最終的に下された判断は、一つ。
「本案は、ノートン嬢の修正案を採用する」
ヴァルテン侯爵は、反論しなかった。
それが、周囲にとって何よりの驚きだった。




