王都配属命令
その日、庁舎の朝はいつもと変わらなかった。
私は机に向かい、書類に目を通していた。
隣の席では、彼が静かにペンを走らせている。
椅子の軋む音。
紙をめくる乾いた音。
それだけで、仕事は十分に進んだ。
――これが、私たちの日常になったのだと。
そう思っていた、その時だった。
「マリエル・ノートン様」
扉の前に立った使者が、私の名を呼んだ。
「王都官庁より、正式な辞令をお持ちしました」
室内の空気が、わずかに変わる。
私は立ち上がり、封蝋のされた書状を受け取った。
赤い蝋に刻まれた紋章は、見慣れないものではない。
「……王都、ですか」
思わず呟いた声に、彼が顔を上げた。
「異動命令か」
「はい」
封を切り、中身に目を通す。
そこに書かれていたのは、簡潔な一文だった。
――王都中央官庁、臨時配属を命ずる。
期限は未定。
職位の明記はなし。
私は一瞬だけ、書面から目を離した。
「随分、曖昧ですね」
「そういう時ほど、面倒だ」
彼は淡々と言ったが、視線は私から離れなかった。
「……条件があります」
書面の末尾。
追記のように記された一行。
――本配属は、単独で行うこと。
彼は、その一文を読んで、わずかに眉を動かした。
「俺は同行しない、という意味だな」
「ええ」
少しだけ、間が空く。
不安がなかったと言えば、嘘になる。
でも、それ以上に――胸の奥が静かだった。
「……承知しました」
「迷わないんだな」
「はい」
私は、机の上の書類を整えた。
「この案件、途中までまとめてあります。引き継ぎを――」
「いい」
彼は、私の言葉を遮った。
「向こうでは、君一人の仕事になる」
「……はい」
「なら、ここで“俺のやり方”を残す必要はない」
視線が、重なる。
「君のやり方で行け」
それだけだった。
励ましでも、命令でもない。
信頼だ。
***
出立の日は、思ったよりも早く来た。
馬車に荷を積み終え、私は庁舎を振り返る。
慣れ親しんだ建物。
そして、隣に並んでいた席。
彼は、そこにはいない。
病後の回復は順調だと聞いている。
それでも、長距離の移動は控えるべきだと、医師が言った。
「無理はするな」
別れ際、彼はそう言った。
「はい」
「……それだけか」
「十分です」
少しだけ、彼は苦笑した。
「相変わらずだな」
「よく、可愛げがない、と言われますから」
笑いながら答える私に対して、彼は静かに首を振った。
「それは、強さだ」
私は、それ以上何も言わなかった。
***
王都中央官庁。
高い天井。
磨き上げられた床。
行き交う官僚たちの視線は、忙しなく、そして冷静だった。
「ノートン嬢ですね」
案内役の男は、私を一瞥してから言った。
「本日から、こちらで補佐業務を」
「……補佐、ですか」
思わず、聞き返す。
「ええ。地方出身ですし、まずは慣れていただかないと」
悪意はない。
ただ、最初から決めつけているだけだ。
私は、頷いた。
「承知しました」
与えられた席は、会議室の隅。
資料整理用の机だった。
――なるほど。
私は、静かに息を吸う。
可愛げがない。
華がない。
補佐向き。
また、同じ場所に立たされたのだ。
でも。
私は、ペンを取った。
机の上に積まれた書類。
その数字に、ほんのわずかな違和感がある。
指でなぞり、計算し直す。
「……成立しませんね、これ」
小さく呟いた声は、誰にも聞かれていない。
まだ。
でも――
ここからだ。
私は、一人で立つ。
そう決めて、書類に向き直った。




