それでも立つ理由
忙しさは、数値で表せるものではなかった。
会議、折衝、資料作成、説明対応。
改革案の進行に加え、異議申立への後処理。
それらを、私は一つずつ、淡々とこなしていった。
眠る時間は、削れた。
食事は、後回しになった。
それでも、倒れなかった。
倒れてはいけなかった。
***
ある日の午後、資料室で、ふと視界が揺れた。
書棚に手をつく。
ほんの一瞬。
深く息を吸えば、収まる程度のものだった。
「……大丈夫」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
私が止まれば、流れが滞る。
今は、それだけで十分な理由だった。
***
執務室に戻ると、机の上に封書が置かれていた。
差出人――アレクシス・レイン。
一瞬、手が止まる。
療養中の彼から、直接届くことは少ない。
封を切る。
中には、短い手紙が一枚。
――進捗報告、受け取った。
――問題は起きていないようだな。
――無理をしていないか。
それだけ。
いつも通りの、簡潔な文章。
私は、紙をそっと置いた。
「無理をしている」
事実だった。
けれど、それを伝える選択肢は、なかった。
私は、返事を書いた。
――予定通り進行中。
――支障なし。
嘘ではない。
ただ、全てを伝えていないだけだ。
***
その日の夜。
庁舎を出ると、雨が降り始めていた。
傘を忘れたことに気づいたが、戻る気にはなれなかった。
濡れた石畳を歩きながら、思う。
彼がいない。
その事実は、日を追うごとに、重くなる。
彼は、決して前に出て私を守るタイプではなかった。
けれど、隣に立っているだけで、背負う重さが半分になる人だった。
今は、その半分を、一人で持っている。
歩みが、少しだけ遅くなる。
立ち止まりそうになる。
それでも。
「……戻る席は、残す」
自分で言った言葉が、脳裏をよぎる。
残すだけでは、意味がない。
守り続けなければ、席は失われる。
だから、立つ。
理由は、それで十分だった。
***
その夜、熱が出た。
高熱ではない。
仕事を休むほどでもない。
私は、布団に横になりながら、明日の予定を頭の中で整理する。
朝一番の会議。
午後の折衝。
夜の資料確認。
考えているうちに、意識が途切れた。
夢の中で、彼が言った。
「君は、もう一人で立てる」
目が覚める。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
それでも。
翌朝、私は庁舎に向かった。
立つ理由は、まだ失われていないのだから。




