知らされる限界
異変は、決定的な形では現れなかった。
レイン様は倒れなかったし、声を荒らげることもなかった。
ただ、会議の途中で、ほんの一瞬だけ言葉を止めた。
「……少し、席を外します」
それだけだった。
理由を問う者はいなかった。
彼がそう言う時は、必ず戻ってくるからだ。
私は、自然な動きで議事を引き継いだ。
資料の順番、反対意見の整理、結論の確認。
自分でも驚くほど、手が迷わなかった。
会議が終わる頃には、誰も彼の不在を口にしなかった。
***
呼び出しは、その日の夕方だった。
場所は執務室ではなく、王府医務室。
扉の前に立った瞬間、胸の奥が静かに冷えた。
「マリエル・ノートン殿ですね」
医師は、私を確認すると、すぐに本題に入った。
「レイン殿の症状ですが……はっきり申し上げます」
その前置きだけで、十分だった。
「現時点では、病名を特定できません」
「……」
「ただし、進行性です」
私は、指先に力を入れた。
「このまま職務を続ければ、確実に悪化します」
「どの程度、でしょうか」
声は、思ったより落ち着いていた。
医師は、一瞬だけ視線を伏せた。
「数年――いえ、それより早い可能性も否定できません」
室内が、音を失った。
「完治の見込みは……」
「前例は、ほとんどありません」
「そう……ですか」
医師は、慎重に言葉を選ぶ。
目の前が真っ暗になる、伝わって来る言葉の一つ一つが揺れて聞こえる。ふと、溢れそうなる涙を堪える為に奥歯を強く噛んだ。
「ただ、職務から完全に離れ、負荷を避ければ、進行を遅らせることは可能です」
つまり。
生きるか、立場を取るか。
選択肢は、それしかなかった。
***
医師が席を外した後、私はようやく彼の方を見た。
レイン様は、いつもと変わらない表情だった。
「驚きましたか」
「……いいえ」
嘘ではなかった。
むしろ、腑に落ちた。
彼の無理の仕方は、以前から異常だった。
「今後の話をしましょう」
彼は、淡々と言った。
「私の業務は、段階的に君に引き継ぐ」
「即時、ではないのですね」
「ええ。混乱を避けます」
合理的だった。
そして――冷酷なほど、彼らしい判断だった。
「異論はありません」
私がそう言うと、彼は一瞬だけ目を細めた。
「……反対しないのですね」
「反対する理由がありません」
感情で判断すべき場面ではない。
本当は今すぐ泣いてすがりたい。でもそれは彼が好いてくれた私ではない。
ここで取り乱せば、彼の決断を揺らがせるだけだ。
「私は、倒れません」
彼は、静かに言った。
「ですが、退きます。今は」
私は、頷いた。
「戻る席は、残します」
それは慰めではなかった。
事実として、そうするつもりだった。
***
庁舎を出ると、空は夕闇に沈みかけていた。
歩きながら、彼はふと立ち止まった。
「一つ、確認させてください」
「何でしょう」
「もし、私が戻れなかった場合」
胸が、わずかに痛んだ。
「その時は」
彼は、私を見た。
「君が、前に立ってください」
私は、少しだけ息を吸う。
「最初から、そのつもりです」
そう答えると、彼はようやく、微かに笑った。
「……頼もしいですね」
その夜、私は一人で書類に向かった。
不安がないわけではない。
けれど、恐怖よりも先に、理解があった。
彼が築いた場所を、終わらせない。
彼が守ろうとしたものを、無意味にしない。
それが、今の私の役割だ。
――戻るかどうかは、彼の問題。
立ち続けるかどうかは、私の選択。
私は、前に進むことを選んだ。




