数字が、ずれた
異変に気づいたのは、ほんの些細なことだった。
「この数字ですが、再確認を」
私は、資料の一行を指でなぞりながら言った。
会議室にいる全員が、一斉にその箇所を見る。
沈黙が、ほんの一瞬だけ落ちた。
「……失礼。こちらが正しいですね」
レイン様はそう言って、淡々と修正を入れた。
声も、表情も、いつもと変わらない。
だからこそ――
私だけが、違和感を覚えた。
この人が、数字を読み違えることはない。
ましてや、こんな初歩的な箇所を。
会議はそのまま滞りなく進み、議題も予定通り消化された。
周囲は誰一人、気に留めていない。
当然だ。
結果だけを見れば、何の問題もなかったのだから。
けれど。
私は、結果ではなく――
過程を見る役目だ。
***
会議後、廊下を並んで歩く。
「先ほどの件ですが」
そう切り出すと、レイン様は歩調を緩めた。
「ええ。助かりました」
「……お疲れではありませんか」
一瞬だけ、間が空いた。
「少し、ですね」
軽い調子だった。
冗談めいてすらいる。
「ですが、問題ありません」
即答だった。
私は、それ以上踏み込まなかった。
この人は、弱っている時ほど「大丈夫だ」と言う。
だから私は、言葉ではなく、行動を見る。
今日の判断の速さ。
書類をめくる指の動き。
思考の切り替え。
どれも致命的ではない。
だが、わずかに――遅い。
気のせいだと言われれば、それまでの差。
それでも。
「念のため、次の案件は私が下準備を厚めにしておきます」
「ありがとうございます。頼もしいですね」
そう言って、彼は微笑んだ。
その笑顔に、陰りはない。
けれど私は、胸の奥がざわつくのを止められなかった。
***
その日の夜。
自室で一人、資料を見返しながら、私はふと思う。
――もし、これが始まりだとしたら。
不安は、口に出した瞬間に現実になる。
だから私は、まだ誰にも言わない。
ただ、備える。
彼が間違えないように。
彼が倒れないように。
そしてもし――
彼が一歩引くことになったとしても。
その席を、空席にしないために。
私は、静かにペンを走らせた。
気づいているのは、まだ私だけだ。
それで、いい。




