第98話:瓦礫の中の一服
「……お退きなさい。この方は、私が直々に相手をする」
ザイツェフ将軍の冷徹な一喝に、兵士たちは困惑しながらも道を開けました。
軍靴で瓦礫を踏みしめながら、彼は咲子の数メートル手前で足を止めました。
その手に握られた拳銃の銃口は、迷いなく咲子の眉間に向けられています。
咲子は茶碗を清めながら、ふっと柔らかく微笑みました。
「おほほ。ご立派な将軍様になられて。……ニコライ。わたくし、姿も声も、あなたと出会った時とはずいぶん変わってしまいましたけれど。どうして、わたくしだと分かったのかしら?」
40年前、瀕死の彼がスープを啜った時に見ていたのは、60代の、既に「伝説」と呼ばれ始めていた老練な外交官としての咲子の姿でした。
今の彼女は、その時よりも遥かに幼い、18歳の「咲良」の姿です。
ザイツェフは、引き金にかけた指を震わせながら、吐き捨てるように言いました。
「……忘れるはずがない。その傲慢なまでの落ち着き。周囲の雑音をすべて無意味にする、その眼差し。……何より、そのお節介で鼻につく『正しさ』の匂いだ、花村咲子」
「あら、手厳しいことですわね」
咲子は気にする様子もなく、サラサラと茶筅を振るい始めました。
瓦礫の山の上で、シャカシャカという竹の鳴る音だけが、不気味なほど静かな戦場に響き渡ります。
「外交も、言葉も、もはやここには存在しません。あるのは力と、力による決着だけだ。あんたが今更どんな若い姿で現れようと、私の絶望は変わらない。ミサイルの発射は止まらないんだ」
「ええ、存じておりますわ。今のあなたは、平和を愛したお父様さえ否定し、すべてを灰にすることでしか自分を保てない……。けれどニコライ、そんなに肩を怒らせていては、せっかくのお茶が苦くなってしまいますわよ」
咲子は、点て終えたばかりの泡立つ緑茶を、一礼して彼の方へと差し出しました。
「一服、いかが? 40年前、わたくしが差し上げたスープのように、お口に合うかは分かりませんけれど」
ザイツェフの瞳が、激しく揺れました。
「スープ」という言葉が、彼の心の奥底に沈めていた、あの極寒の戦場で60代の咲子に救われた記憶を無理やり引きずり出したのです。
銃口は向けられたまま。
世界中がスマホの画面を凝視し、瞬き一つできずにこの異様な光景を見守っていました。
「……ふん。毒でも入っているのか?」
「まさか。わたくし、おもてなしに手は抜きませんの。たとえ相手が、世界を滅ぼそうとしている駄々っ子であっても」
ザイツェフは、自嘲気味な笑いを浮かべると、ついに拳銃をホルスターに収めました。
そして、膝をつき、泥に汚れるのも構わずに、咲子の正面に座り込んだのです。
「いいだろう。死ぬ前の最後の贅沢だ。あんたの言う『平和』とやらが、この一杯で語れるものなのか、見せてもらおう」
硝煙と砂埃の中、一国の命運を握る独裁者と、時を越えて蘇った伝説の外交官。
二人の「最後のお茶会」が、今、始まりました。




