第94話:ザイツェフ将軍の過去回想:其の三「汚泥に沈む理想と、狂気の萌芽」
父の死後、ニコライは「平和」という言葉を心の奥底に封印し、軍の階段を猛烈な勢いで駆け上がりました。
かつての少年兵は、今や誰もが恐れる若き知将、ニコライ・ザイツェフ将軍となっていました。
彼が手にしたのは、かつての父が持っていたような「信頼」ではなく、圧倒的な「恐怖」と「武力」でした
(咲子さん、見ていますか。あなたの言った『対話』では、父さんは救えなかった。けれど、この力なら、誰も父さんを撃たせない)
しかし、権力の中枢に座ったニコライを待っていたのは、さらなる絶望でした。
平和を謳う政治家たちは、裏では敵国と武器を密売して私腹を肥やし、人道支援の物資は権力者たちのパーティーの料理へと消えていく。
彼が守ろうとした「国」の実態は、腐った果実のように、芯まで害虫に食い荒らされていたのです。
「将軍、今回の軍事予算から、これだけの『手数料』を我々の党に回していただければ、あなたの地位は安泰ですよ」
脂ぎった顔の政治家が差し出した賄賂の小切手を見て、ニコライの胸の中にあった何かが、ついに完全に焼け落ちました。
(……救いようがない。この世界には、守るべき価値のある日常なんて、最初から存在しなかったんだ)
かつて、咲子がくれた一杯のスープ。
あの温もりこそが、彼にとっての「平和」のすべてでした。
しかし、今のこの国に、あの時のような清らかなスープを作れる人間がどこにいるというのか。
「平和を維持するために、嘘を重ね、腐敗を飲み込み、弱者を踏みにじる……。そんな『平和』に、一体何の意味がある?」
ニコライの思考は、極端な終末思想へと振り切れました。
不純なものが混じり合ったこの世界を、対話で変えることなど不可能だ。
ならば、一度すべてを焼き払い、白紙に戻すしかない。核という名の「浄化の炎」で、この汚れた大地を一度リセットすることこそが、自分が父と咲子に誓った「究極の平和」なのではないか――。
彼は、自分がかつて「生きて、この国を平和にしなさい」と励まされた言葉を、恐ろしい形に歪めて解釈してしまったのです。
「……もうすぐです、咲子さん。あなたが教えてくれたスープのように、温かく、すべてを等しく溶かして消し去る『光』を、世界にプレゼントしてあげましょう」
管制室のモニターに映る核ミサイルのカウントダウンを眺めながら、ニコライは狂気に満ちた、けれどどこか悲しげな微笑を浮かべていました。
その時、管制室の緊急警報が鳴り響きました。
「報告します! 封鎖されたはずの国境広場に……未確認の航空機が接近! 中から一人の少女が、パラシュートで降下してきました!」
「何だと……?」
ザイツェフの凍りついた時間が、再び動き出そうとしていました。




