第92話:ザイツェフ将軍の過去回想:其の一「泥と血にまみれた15歳の少年兵と温かなスープ」
40年前。B国の国境付近は、鉛色の雲が垂れ込め、絶え間なく降り注ぐ砲弾によって大地が黒く焼き尽くされていました。
当時15歳だったニコライ・ザイツェフは、身の丈に合わない重い小銃を抱え、泥水が溜まった塹壕の底で震えていました。
周囲には、昨日まで冗談を言い合っていた仲間たちの「物言わぬ亡骸」が、無造作に転がっています。
「……寒い。お母さん……痛いよ……」
ニコライの腹部には、砲弾の破片による深い傷がありました。
止血のための包帯はとうに泥と血で黒ずみ、感覚の失われた指先は死の冷たさを帯び始めています。
援軍はなく、無線からは絶望を告げるノイズが流れるだけ。
彼はただ、自分の命がこの冷たい泥の中に溶けて消えていくのを待っていました。
その時でした。 降りしきる雨と硝煙の向こうから、戦場には不釣り合いなほど静かな、規則正しい靴音が近づいてきました。
「……まだ、死ぬには早すぎますわ。このような冷たい場所で終わらせるには、あなたの命はあまりに輝いていますもの」
微かに目を開けたニコライの視界に入ったのは、泥に汚れることを厭わず、自分の横に膝をつく一人の女性でした。
東洋的な顔立ちに、凛とした慈愛を湛えた瞳。当時、外交官として離れた後も戦地を奔走していた若き日の花村咲子でした。
咲子は震えるニコライの体を優しく抱き起こすと、鞄から古びた魔法瓶を取り出しました。
「さあ、お飲みなさい。わたくしが今朝、あり合わせの材料で作ったスープですけれど」
差し出されたカップから、湯気が立ち上りました。ニコライは、痺れる唇をカップの縁に寄せ、その液体を一口すすりました。
ジャガイモの素朴な甘み、野草の香り、そして何より、自分を人間として扱う「誰かの温もり」。 凍りついていた心臓が、ドクンと音を立てて脈打ち始めました。
胃の底から広がる熱は、死の恐怖に支配されていたニコライの体に、生きるための「拒絶」を教え込みました。
「……おいしい。……生きてる……僕、まだ生きてる……!」
溢れ出したのは、涙でした。泥まみれの頬を伝うその涙を、咲子は白いハンカチで優しく拭いました。
「ええ、生きていますわ、ニコライ。この味を、そして今の温かさを忘れてはなりません。あなたは生きて、この国を平和にするのです。銃ではなく、誰かのためにスープを作れるような……そんな国を。約束してくださる?」
咲子の真っ直ぐな瞳に、ニコライは魂を射抜かれました。
「……はい。約束します。僕、死にません。平和な国を作ります……!」
この時、少年兵ニコライにとって、花村咲子は「神」にも等しい救済者となりました。
しかし、この清らかな誓いが、後の彼をどれほど深い絶望へと突き落とすことになるのか、その時の彼はまだ知る由もありませんでした。




