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第90話:静寂なる決断


ラジオが報じる「核ミサイル発射準備」のニュースは、佐藤家のリビングに冷たい雨を降らせるかのような絶望感をもたらしていました。


全世界が息を呑み、主要都市ではパニックが広がり始めています。


物理的な包囲を「良心」で跳ね返したばかりのこの家に、今度は「世界の終焉」という巨大な影が音もなく忍び寄っていました。


「外交も、ネットも無視する……。そんな相手に、一体何ができるっていうんですか」


パパが頭を抱え、ソファに崩れ落ちました。


どんなに言葉を尽くしても、相手が耳を塞ぎ、世界ごと自爆しようとしているのなら、もはや理性的な対話は成立しません。


しかし、咲子は静かに立ち上がり、二階の自室へと向かいました。


数分後、彼女が手にしていたのは、小さな旅行鞄と、丁寧に包まれた茶道具のセットでした。


「パパさん、舞さん、千尋さん。……そして、みゆちゃん。わたくし、決断いたしましたわ。

これより、B国へ向かいます」


その言葉に、リビングは凍りついたような静寂に包まれました。


「何を言ってるんですか、咲子さん! 今のB国は戦場以上の地獄です。核のボタンに手をかけた狂人のもとへ行くなんて、自殺行為だ!」


パパが必死に止めますが、咲子の瞳は、凪いだ海のように穏やかで、それでいて揺るぎない光を湛えていました。


「おほほ。確かに今のニコライは、自分自身の孤独に焼かれた怪物かもしれませんわ。けれど、怪物を怪物として扱い、銃を向ければ、彼は迷わずボタンを押すでしょう。……彼が今、最も必要としているのは、非難の言葉でも軍隊の威圧でもありません。ただ、自分の魂の震えに気づいてくれる『人間』ですの」


咲子は窓の外を見つめました。


「外交官としてのわたくしは、かつて多くの条約を結び、多くの平和を作ってきました。けれど、一人の少年の心の傷を癒やすことだけは、書類や握手ではできなかった……。これは、わたくしが99年かけて辿り着いた、最後にして最大の個人的な『わがまま』なのですわ」


咲子は、みゆの前に歩み寄り、その小さな肩に手を置きました。


「みゆちゃん。先ほどのルンバの動画の約束……必ず守りますわ。わたくし、美味しい豆大福をお土産に買って戻ってきますから。……わたくしがいない間、この家を、そして『未来』をお願いしますね」


その時、リビングのテーブルに置いてあった咲子の私物のスマートフォンが震えました。


エドワードからの極秘通信です。


「……先生。手配はすべて完了しました。僕が用意したプライベートジェットが、あと一時間で最寄りの空港に到着します。B国の一部、良心派の軍人が着陸を援護してくれるはずです。でも、そこから先は……」


「ええ、分かっていますわ。そこからは、わたくしの『仕事』です。……エドワード、あなたにはもっと大きな役割があります。わたくしの身に何があっても、あなたが新たな時代の『光』となって、対話の灯を絶やさないこと。約束してくださる?」


通信の向こうで、エドワードが涙を堪えるような、震える声で答えました。


「……はい。約束します。花村咲子の、そして『咲良』の弟子として。……先生、どうかご無事で」


世界が恐怖で沈黙する中、咲子は静かに佐藤家の玄関を後にしました。


一人の老婆の魂を宿した18歳の少女が、世界を救う最後の「対面」のために、戦火の渦巻く空へと飛び立とうとしていました。


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