第89話:暴走する狂気
佐藤家のリビングに、ラジオから流れる絶望的なニュースが響き渡ります。
「交渉決裂」「核ミサイル」「最終警告」……。飛び交う言葉のどれもが、現代社会が最も恐れていた最悪のシナリオを告げていました。
「そんな……。ザイツェフ将軍、どうしちゃったの……?」
みゆが震える手でラジオの音量を下げました。
B国の独裁官、ニコライ・ザイツェフ将軍。彼はこれまでの咲子による「対話の攻勢」や、愛弟子エドワードによる裏工作、さらには自分に従っていた兵士たちの離反を目の当たりにし、ついに理性を焼き切らせてしまったのです。
「……一度すべてを焼き払えば、迷いも憎しみも、裏切りも消える。それが、俺がたどり着いた唯一の、そして純粋な平和だ!」
施設に立てこもった将軍は、全世界に向けて狂気じみた声明を発表しました。
それはもはや政治的な要求ではなく、世界を巻き込んだ「無理心中」の宣言でした。
公式の外交ルートはすべて遮断され、国連の呼びかけも、かつての恩師の声も、今の彼には届きません。
「咲子さん、どうすれば……。ネットも封鎖され、向こうは核を盾にしています。もう、誰も彼に近づくことさえできませんわ」
舞が声を震わせながらタブレットを見つめます。
世界各国のリーダーたちはパニックに陥り、防衛ラインを上げることで精一杯。
誰もが「対話」を諦め、最悪の軍事衝突に備えていました。
佐藤家の居間の中心で、咲子は静かに目を閉じました。
その脳裏には、40年前の戦場で出会った、泥まみれの少年兵の姿が浮かんでいました。
震える手でスープを啜り、「僕は、いつかこの国を平和にします」と涙を流した、あの純粋な瞳。
「おほほ……。ニコライ、あなたはそんなにも寂しかったのですか。平和を願うあまり、その重みに耐えきれなくなってしまったのね」
咲子はゆっくりと立ち上がりました。
その姿は15歳の少女でありながら、背負っているオーラは99年の激動を生き抜いた「巨人」そのものでした。
「パパさん。皆様。わたくし、決断いたしましたわ。……外交もネットも通用しないのなら、わたくし自身がその『狂気』の中へ飛び込むしかありません」
「えっ!? まさか、B国へ行くって言うの!?」 パパが驚愕の声を上げます。
「ええ。ニコライは、自分を怪物だと思い込んでいます。怪物には、銃や理屈は効きません。
……ただ、一人の人間として向き合い、その孤独を抱きしめてあげる誰かが必要なのです。それができるのは、あの日のスープの味を知っている、わたくしだけですわ」
咲子の瞳には、迷いなど微塵もありませんでした。
国家が、軍隊が、そしてインターネットが敗北したこの絶望的な沈黙の中、一人の老婆の魂を持つ少女が、世界を救うための「最後の一手」を打とうとしていました。




