第88話:日常の約束
アカウントが完全に凍結され、モニターの明かりが消えた佐藤家のリビングは、まるで時間が止まってしまったかのような、重苦しい静寂に包まれていました。
昨日まで世界中の数億人と繋がっていた「窓」が閉じられた喪失感は、あまりにも巨大でした。
しかし、ソファに深く腰掛けた咲子は、驚くほど平然としていました。その凛とした佇まいは、荒れ狂う嵐の中でも揺るがない大樹のようでもありました。
「おばあちゃん、お茶淹れたよ……。少しは、元気出るかな」
みゆが、今にも泣き出しそうな声を押し殺して、温かい湯呑みを差し出しました。
外の道路には依然として警察車両が陣取り、遠くでヘリの音が鳴り響いています。
画面の向こうでは、国家という巨大な機構が「咲良」という存在を歴史から抹消しようと躍起になっている。そんな異常な状況下で、みゆの差し出したお茶だけが、唯一の確かな体温を持っていました。
「ありがとう、みゆちゃん。……そんなに悲しい顔をなさらないで。わたくしたちの『未来』は、誰にも奪わせはしませんわ」
咲子は、みゆの細い手を両手で優しく、包み込むように握りました。
その手のひらは、99年の知恵と慈愛を宿したように温かく、みゆの震えを静かに止めていきました。
みゆは、ふと視線を落として、リビングの床を縦横無尽に走り回るお掃除ロボットの「ルンバ」を見つめました。
「ねえ、おばあちゃん。……この騒ぎが全部終わって、また平和になったら、ルンバの動画を撮ろうね。今度はルンバの上に猫のぬいぐるみでも乗せて、私がもっと上手に編集するから。次は絶対、100万再生いくよ。……だから、そんなに遠くへ行かないで」
みゆの小さな、けれど切実な「日常の約束」は、平和への祈りそのものでした。咲子の正体が「伝説の外交官」であり、世界を動かす力を持っていると知っても、みゆにとって彼女は、隣に引っ越してきた大好きなおばあちゃん以外の何者でもなかったのです。
咲子の目元が、春の陽だまりのように柔らかく緩みました。
「ええ、約束しましょう。わたくし、あのシュールな映像は嫌いではありませんのよ。……世界を救うなんて大層な看板を掲げるよりも、わたくしは、あなたとここで笑いながら動画を作る時間を、何より大切に思っていますわ。それこそが、わたくしがこの99年で見つけた、最も守りたい『未来』そのものですもの」
その時、リビングの隅でノイズを吐き出していた古いラジオから、緊張感に満ちた緊急ニュースが流れ始めました。
「緊急ニュースをお伝えします! B国のザイツェフ将軍が、自国政府の統制を完全に無視。核ミサイル発射施設を占拠した模様です。国際社会との全対話ルートは遮断され……」
平和への約束を嘲笑うかのように、世界は理性の通じない「狂気」の深淵へと、一気に転がり始めました。咲子の瞳から、先ほどまでの穏やかな色が消え、鋭い「光」が宿りました。




