第83話:良心の境界線
佐藤家の玄関先、張り詰めた沈黙の中で、警察庁から派遣された捜査指揮官・高木は、震える手で捜索令状を握りしめていました。
マスコミの姿はありません。
周囲を埋め尽くしているのは、ただ静かに生活の音を響かせる近隣住民たちだけです。
上層部からは「世論が騒ぎ出す前に、密かに機材を押収し、配信の根を絶て」という非情な密命が下されていました。
(……俺は、一体、何をしているんだ?)
高木は、令状の重みがまるで鉄の塊のように感じられました。
実は昨夜、彼は警察庁の自席で、密かに咲子の配信を聞いていました。
病床にある彼の父が、咲子の語る「スープの思い出」を聞いて、数ヶ月ぶりに「……懐かしいな。母さんの味を思い出したよ」と、穏やかな表情を見せたからです。
高木にとって、花村咲子は国家を脅かす「煽動者」などではなく、バラバラになりかけていた自分の家族に、一筋の光をくれた恩人でした。
背後に控える武装した警察官たちも、一様に視線を落としていました。
彼らもまた、この60日間、誰にも言えず咲子の「放課後」に救われてきた、名もなき一人の人間だったからです。
その時、二階の窓がゆっくりと開きました。
「皆様、お暑い中ご苦労様ですわ」
鈴の鳴るような、穏やかな声。窓辺に現れたのは、CGのアバターではない、実体を持った一人の気品ある少女——花村咲子でした。
彼女は小さなトレイに、湯気の立つお茶と、近所の和菓子屋で買った大福を載せていました。
「高木さん……とおっしゃいましたかしら? もしかしてあなたも配信を見てくださったのかしら。
とても嬉しいわ」
高木は、雷に打たれたように硬直しました。
「お仕事、大変でしょう? 組織の歯車として動くことも一つの責任ですが、その前に、あなたは誰かの息子であり、温かな心を持つ人間ですわ。……お一つ、いかが? お茶くらい、法に触れることはありませんでしょう?」
咲子は、まるで放課後の孫に接するように、優しく微笑みました。
高木の視界が、不意に滲みました。
キャリア官僚として法を遵守し、秩序を守るために生きてきた。
けれど、目の前にいるのは、排除すべき「容疑者」ではなく、自分たちを人間として見てくれている、一人の女性でした。
(守るべき法とは……一体誰のためのものだ?)
高木は、自分の心の中で何かが音を立てて折れるのを感じました。
彼は令状をゆっくりと下ろし、部下たちに背を向けたまま、はっきりとした声で告げました。
「……本宅において、国際紛争を煽動するような不審な通信設備、および違法な証拠品は確認できない。……我々の任務は、完了だ」
「高木指揮官……いいのか?」
同僚の捜査官が驚いた顔をしますが、その瞳にも安堵の色が混じっていました。
「異常、なしだ。責任は俺がとる。……これ以上、この家の『平和』を乱す権限は、我々にはない」
高木は咲子に向かって、一瞬だけ深く頭を下げました。
国家権力の刃が、物理的な抵抗ではなく、個人の「良心」という静かな壁によって、ついに折れた瞬間でした。




