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53.冬の陽だまり――九十九年の恋文(配信外エピソード)

その日、咲子は誰にも告げず、一人で静かに家を出ました。


いつもならみゆが「どこへ行くのですか?」と付いてくるところですが、今日ばかりは彼女も空気を読み、ただ「お気をつけて」と、温かい紅茶を水筒に詰めて持たせてくれました。


都会の喧騒から離れた、静かな高台にある墓地。


冷たく澄んだ冬の空気が、十八歳の瑞々しい体(依代)に心地よく刺さります。 


咲子は、かつての夫――花村家を支え、若き日の咲子を影から支え続けた男の墓の前に立ちました。


咲子は、手慣れた手つきで墓石を清め始めました。


外交官として世界を舞台に、常に「完璧」であり続けた咲子。


しかし、この墓に眠る人の前でだけは、彼女は「鉄の女」の仮面を脱ぎ捨てることができました。


「……あなた。不格好な握り飯、また食べたくなってしまいましたわ」


脳裏に蘇るのは、大仕事の後に疲れ果てて帰宅した夜のこと。


彼は何も聞かず、ただ不格好で、塩気の強い握り飯を差し出してくれました。


「咲子、お前が世界を救えなくても、俺が笑っていればそれでいいじゃないか」。


その言葉に、何度救われたことか。


咲子は墓石に触れながら、ふっと寂しげに、しかし愛おしそうに目を細めました。


咲子は、みゆが持たせてくれた水筒を開け、カップに紅茶を注いで墓前に供えました。


「驚かないでくださいね。わたくし、あの日あなたの後を追ったはずなのに……今、こうして若返って、インターネットという得体の知れない場所で人気者になっておりますの」


かつては極秘電信で国家の運命を左右していた彼女が、今は「ひょっとこ」を被って若者たちを笑わせている。


その滑稽さと平和さを、彼はきっと大笑いして受け入れてくれるはずです。


「ご覧なさい、今の日本を。あなたが命がけで守ろうとしたこの国は、若者たちが夜遅くまでゲームの話で盛り上がれるほど、平和で穏やかですわよ。……わたくし、もう一度生きてみて良かったです」


彼女は誰に見せるでもなく、スマホを取り出し、自身のチャンネルに寄せられた温かなコメントの数々を眺めました。


それは、彼女が「未来」へ繋いだ希望の結晶でした。


「愛した記憶は、消えませんわね」


一陣の風が吹き、供えた百合の花が揺れました。


まるで、墓石の下の夫が「お前らしいな」と笑って答えたかのような、静かな瞬間。



咲子は立ち上がり、冬の夕日に染まる空を見上げました。


99歳まで生き抜いた一人の女性として。そして、再び18歳の少女として世界を歩み始めた表現者として。


「さあ、帰りましょうか。皆が待っていますわ」


彼女はもう一度だけ墓石に優しく触れ、背筋を伸ばして歩き出しました。


その足取りは、愛する人がいた世界を、もっと好きになるために踏み出す、力強い一歩でした。



その夜、佐藤家のリビングにて

帰宅した咲子は、少しだけ赤くなった鼻を擦りながら、みゆが焼いた大福を頬張りました。



「……あら。あの方の握り飯には負けますけれど、この大福もなかなかのものですわね」



「あら、比べる相手が悪すぎますわ、おばあ様」


二人の笑い声が、冬の夜に響きます。


咲子のスマホには、リスナーからの「明日も配信待ってるよ!」という通知が、絶え間なく届いていました。

次回は一期生の様子、その次は咲子の若返りの光と闇に迫ります。

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