47.記憶の寄託先――白雪の茶会
視聴者との距離を極限まで縮めてきた咲良でしたが、今夜の配信は、開始前からどこか静謐な空気に包まれていました。
画面に映し出されたのは、いつもの和室ではなく、VRで構築された「真っ白な雪原」でした。
遠くに霞む冬木立と、静かに舞い落ちる雪の結晶。
その中央に、小さな野点の席が用意され、咲良が一人、赤い毛氈の上に座っていました。
「……今夜は、一通のマシュマロ(お悩み相談)をご紹介させていただきますわね」
咲良の声は、深夜の雪のように低く、優しく響きました。
届いた一通の「遺言」
読み上げられたのは、ある30代の男性からのメッセージでした。
「咲良さん、こんばんは。初めて投稿します。
僕は最近、若年性認知症という診断を受けました。
まだ初期ですが、少しずつ、昨日の献立や、仕事の手順、そして大好きだった妻との思い出が、指の間からこぼれ落ちる砂のように消えていっています。
自分が自分でなくなっていくのが、たまらなく怖いです。
いつか、咲良さんの配信を見て笑ったことさえ忘れてしまう日が来る。その時、僕はまだ僕でいられるのでしょうか。
僕は、どこへ消えてしまうのでしょうか」
チャット欄は一瞬で静まり返りました。
いつもなら野次馬や冗談を飛ばすリスナーたちも、この切実な問いを前に、キーボードを叩く手を止めていました。
忘れることは「失うこと」ではない
咲良はゆっくりと茶碗を置き、画面の向こうにいる「彼」を、そして同じように何かに怯えている全てのリスナーを見つめるように語り始めました。
「……お辛いでしょう。自分という書物から、大切なページが破り取られていくような感覚……。わたくしも、99年という長い時間を生きてきました。その道すがら、多くの友を見送り、そして多くの記憶を置いてきましたわ」
彼女は雪原を指差しました。
「皆様、この雪原をご覧なさいな。今は真っ白で、何もありませんわね。でも、ここにはかつて、色鮮やかな花が咲き、鳥が歌っていたはずです。雪が降ったからといって、その花たちが『いなかったこと』になりますか?」
咲良は、VRの操作パネルを静かに動かしました。
すると、真っ白な雪原の上に、ポツン、ポツンと、温かな光を放つ「花のホログラム」が現れ始めました。
「記憶とは、心の表面に咲く花のようなもの。病や時という雪が降れば、見えなくなることもあるでしょう。
でもね、根っこは土の奥深く、魂の底に眠っているのです。……そして何より、あなたが忘れてしまったとしても、『あなたがそこにいた』ことを覚えている誰かがいる限り、その花は死にません」
咲良は、立ち上がり、雪原をゆっくりと歩き始めました。
彼女が歩いた足跡には、リスナーたちの過去の「コメント」や「思い出」が、小さな星屑のような光となって浮かび上がります。
「あなたが今日まで誰かを愛し、誰かを助け、ここでわたくしの配信を見て笑ったという事実。
それは、わたくしのサーバー……いえ、わたくしのこの魂にしっかりと刻まれました。
あなたが忘れても、わたくしが覚えています。
あなたが自分を見失いそうになったら、ここ(櫻守)へいらっしゃい。
『あなたは、こんなに素敵な方でしたのよ』と、何度でも、何千回でも、わたくしが語り聞かせて差し上げますわ」
彼女の声は、かつて外交官として、絶望の淵にいた人々に「希望という名の契約」を結ばせた時と同じ、圧倒的な説得力と慈愛に満ちていました。
「VTuberという存在は、データの集まりだと思われていますわね。でも、わたくしはこう思います。
わたくしたちは、皆様の『心の忘れ物』を預かる、大きな図書館のような存在なのだと。
あなたが明日、わたくしの名前を忘れても。わたくしが、あなたの分まであなたの人生を誇り、覚えておいて差し上げます。
……ですから、どうか怖がらないで。あなたはどこへも消えません」
配信の最後、咲良は真っ白な空間に、巨大な「桜の木」を一本、満開に咲かせました。雪の中に咲く、奇跡のような桜。
「今夜は、お休みになるまでこの桜を眺めていなさいな。……何も考えなくてよろしい。ただ、今、この瞬間、
心が温かいということだけを感じてください。それが『生きている』という証拠ですわ」
その夜、配信が終わっても、チャット欄には「ありがとう」という言葉が溢れ続けました。
次回は朝7時に掲示板回。その後に昼頃に「犯罪加害者との対話」を更新します。
賛否を生むこの展開、咲子はどんな答えを出すのか?




