レベッカとフリーダム号
濡れて乾いた本はページをめくるたびにバラバラと音を立てた。
イシグロはなぜ小説には天使も死神も出てこないのか考えた。小説では下賤な召使いレベッカ、下賤で古臭い庭師のロベルトとして描かれていた。イシグロに至っては登場すらしない。
あれ?
まさか……
イシグロもコミカライズ版に転生しているのではないのか。アマランタの記憶ではコミカライズ版には天使が出てきているらしいので、あながち自分の推察もおかしくはない。コミカライズ化で設定を膨らませている。これでは原作でなく原案だ。
天使と言えば、レメディオスの前で呑気に舟を漕ぐ天使もどうかと思うが。
「次は終点ですがどうしますか?」
隣のブライアンが尋ねた。
「向こうも終点前に来る。列車内で片付けたいはずだ」
「良い判断だと思いますね」
「そろそろ起こすとするか」
個室では、レベッカが窓と背もたれに挟まれるように涎を垂らしていた。イシグロは拳銃を抜いた。このまま引き金を引こうと考えたが、そっとホルスターに戻した。
涎垂らして寝られてはなあ。
レメディオスが気付いた。
「心配するな」
「うん。信じてる」
「起きろ、下級天使」
イシグロはレベッカを蹴飛ばした。
「へ……!?」
「仕事だ」
連結部に人が見えた。イシグロはレベッカにはレメディオスを抱いて後ろへ行くように命じた。キズ一つ付けようもんならしばいてやるからなと付け加えた。
「わかってるわよ!」
「涎拭いておけ。せっかくの美人が台無しだぞ」
「う、うるさいわね!」
レベッカは叫んで後ろへと逃げた。個室の扉が一つ開いて、二人の男が前に立ちはだかった。彼女は即座に股間を蹴り上げて、もう一人を通り過ぎざまスティレットでうなじを突いた。
「天使、寝惚けてるんじゃないぞ!」
「寝惚けてないわよ!」
三等室との連結部から招かれざる客がわらわらと来た。イシグロは拳銃を撃ちながら退却した。己の手柄しか考えていない愚かな敵の散弾銃が天井を壊した。
「見せてないだろうな」
「もちろんよ」
イシグロは排莢して空いた個室に隠れて装弾した。目を血走らせて駆け込んでくる一人の足を撃ち抜くと、後ろの一人も転がるように倒れた。イシグロはためらう敵に悠々と背を見せ、最後尾の貨車に繋がる連結部にスルッと身を隠した。吹きさらしの風の中、レベッカはレメディオスを抱いたまま飛び移るのを見ていた。危うく彼女はレメディオスと一緒に後ろに倒れかけた。
「下手くそ」
「お、落ちる!」
イシグロはレベッカの背を蹴飛ばさない程度に足の裏で受け止めた。後ろ手でガラス越しの通路に撃ち込んだと同時に、フリーダム号がレベッカの肩をくわえ、レメディオスがフリーダム号の鞍をつかんだ。
「レベッカ!レメディオスに何させてやがるんだ。くそみたいなことしてたら、ここで撃ち殺すぞ」
「い、今のは……」
「フリーダム号、頼んだぞ」
「あんさんはどうしますんや?」
「食い止める」
「ほな。わいはレベッカはんを信じて街に行きますわ」
「後ろで蹴飛ばしてやれ」
レメディオスがフリーダム号に、まだ行かないでと叫んだが、レベッカは彼女を抱いて鞍にまたがって腹を蹴った。
「レメディオス、死神の伝言だ。レベッカはいい天使だから信じろ。馬もだ」
レベッカは睨んできた。
イシグロはニヤッとして排莢した。扉が開いた瞬間、入れ替わりに外の一人を線路に落として通路を駆け抜けた。ブライアンが仕込み杖を放り出してくれたので、イシグロは二等客車に死体の山を積み重ねた。
「手伝わせて申し訳ないね」
「お手伝いできて光栄です」
個室の窓からフリーダム号が線路沿いを離れるのを見た。レベッカはレメディオスを抱き締めるように身を低くしていた。
「少しは時間は稼げるかな」
「クロウ様、魂を数えるのに少しかかるのですが、後でお渡しするというのは」
「んなもんかまわん」
「申し訳ございません。では後ほど西区八番街二二一へお越しください」




