コミカライズ版
アマランタは伯爵がビリヤードをしているのを見るともなしに見ていた。イシグロもビリヤードに凝っていたことがある。白い玉を突いて何が面白いのだと思いつつ付き合わされたことを思い出した。青を穴に入れたければ青を突けと笑うと、イシグロも「そうしたいけど、世の中は得てしてそうはならない」と白い玉を突いていた。
「箱を見ろ」
アマランタは青い光沢のあるドレスを持ち上げた。
「仮装のことだが、君には森の妖精を束ねていたグレイシア姫になってもらう」
つまらない話だ。グレイシア姫がどこの誰だろう。アマランタは知らない。そんなことはどうでもいい。服の箱の下には氷の粒が入ったような小瓶が転がる。
これは?
「水溶性でね。飲んでしばらくすると不整脈を起こすんだ。鑑定はできない。君も今回の仕事でおしまいにしよう。私もレメディオスの今後のことも考えている」
一ヶ月後の戦勝記念仮装舞踏会でヘレンを殺すこと。伯爵は薄ら笑いを浮かべたながら、アマランタのうなじに唇を近付けてきて、とっさに袖の血痕を見つけた。
「これは何だ」
「あら?」
伯爵と寝たことはないが、三巻までに寝ていないという証拠もない。若いときに寝ているのかもしれないが……これはイシグロに相談なんてできない。彼こそがマリアとアマランタの王子様だ。もちろん嫌われることはないだろうが、慰めてくれる一言一言が響きすぎて余計につらくなる。
「これは何だと聞いている!」
頬を張られた。
「召使いのレベッカのものです。前の奥様のスパイでした。屋敷にどれくらい伯爵の知らない暗殺者がいるのですか?」
伯爵は一瞬で顔を朱に染めると、またアマランタは手の甲で頬を殴られた。暖炉の火かき棒を手にして打ち付けようとしたが自重した。プライドが高いのだ。
「せいぜい今度の仕事のことを考えろ」
伯爵に呼ばれ、若い召使いが来た。十六歳の彼女は髪を結わえていた。裏の世界で生きていける何かしらの特技を持っているのかもしれないが、見たことはない。
「アマランタ、レベッカはどこにいる」
「村へ行くと話してましたけど?」
「すぐに連れ戻せ」
もし村へ出られているなら二度と戻ってこないだろうなと思いつつ、イシグロはどうしているのか気になる。まさか殺されてあるのではないかと思うと、これまで死んでいたような心臓が急に跳ねはじめた。
「奥様、仮縫いを」
「ええ」
アマランタは召使いを衣装室に行かせておいてからバスルームに行くと、レベッカの姿もなく争った痕跡すらない。心の支えになるイシグロも消えていた。ただバスタブに煙草の吸殻が浮かんでいたので安心した。
☆☆☆☆
庭師が薔薇園の近くにある、前世のイシグロとマリアの部屋よりも広い納屋の外で堆肥を混ぜていた。イシグロは納屋に転がしたレベッカの死体を眺めながら、ロベルトの「大陸の戦争のせいで、輸入堆肥が高くなった」という話を聞いていた。
「堆肥、糞でまかなえんのか」
「薔薇には薔薇の肥やしを作る。他は糞を撒いてるがな。ここの薔薇の庭は特別だ」
「薔薇を愛でるタイプには見えん。基本的に俺は姿を消せないのか。死神なのに」
「ぶつくさとうるさい。実力を身につけることだな。消えたら消えたで楽しくもないだろう。ずっと一人で魂を集めるだけの仕事三昧か。人や天使とよろしくしろ」
「どうせ一人になるんだ。姿見えない方が動きやすい。現に小娘を殺さなくても済んだ」
「まさしく天使にとっては死神だな」
イシグロはポケットから出した紙巻き煙草に火をつけようとすると、納屋で火を使うなと言われた。輸入堆肥が可燃性があるので気を付けなければならないらしい。
「不思議に思わんか」
「何がだ」
イシグロは煙をくゆらせながら、細い十字のナイフをかざした。
「コイツの魂はどうした?」
イシグロは濡れた小説を開いた。
☆☆☆ ☆☆☆
レベッカは招き入れた連中の情けなさに呆れた後、使いものにならないと判断して、翌朝雑木林で落ち合い、スティレットで一刺しにして誘惑していた男を始末した。その後、アマランタはバスルームの洗面台でレメディオスの不憫さと己の置かれた暗黒街への不安に涙を流していると、召使いのレベッカが来た。そしてこれからレベッカは手紙を出しに行くと言うではないか。諸君なら察しているだろう。相手は誘拐犯の親玉だ。暗殺者として育てられたアマランタも察した。彼女の髪を鷲掴みにして顔面を何度も洗面台に打ち付けた。彼女のスカートの下のガードルからスティレットを奪い、首に刃のない剣身を押し付けた。この下女が昨夜レメディオスを誘拐しようとしたのだ。神も許さぬ悪行!何という卑劣な召使いだ。私は許さん!
☆☆☆☆ ☆☆☆☆
イシグロは濡れた小説のページをめくりながら首を傾げた。なぜアマランタはレベッカがレメディオスを殺そうとしていることを知っていたのだろうか。イシグロは濡れた一枚を破れないようにめくった。
「俺が出てこない」




