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イシグロとマリア

 ☆☆☆ ☆☆☆

 美しいアマランタは生死の淵にいた。これまでのことを考えれば当然のことだ。神に喉を締められた彼女は贅を尽くしたテーブルの縁から滑るように倒れた。今まさに神が天罰を下そうとしているのだ。しかし彼女は死ぬわけにはいかない。なぜなら彼女の腹には愛すべき一人の娘がいるのだ。私は今一度彼女に命を与えたくてしようがないが、神に背くことになるのだろうか。読者諸君はいかがだろうか?

 ☆☆☆ ☆☆☆


「知らんがな」


 イシグロは呆れて本に呟いた。

 人口四十万弱、河口の中州にある地方都市で隠れて暮らしていた。都会に近くて都会でもない地方都市で身を隠すには丁度いい。


 パンダもいた。

 マリアが観たいというので観に行くと、背を向けたままスルメをしがんでいる居酒屋のおっさんのように見えた。


 空海も身を隠しているらしい。

 あれは修行だ。

 五十六億七千万年後に救われる。

 長生きするために運動でもしなければ。


 一輪の薔薇の挿された一室、午後八時過ぎどこかで住人がトイレを使ったらしく、壁に埋められた配管を通る下水の音が響いてきた。

 薔薇を飾れる日が来るなんて。

 マリアはボロボロのマンションでも気にならない。中古のソファ、狭いベッド……。


 何でも幸せに繋げた。


「もう読むのこれしかないしなあ」


 ソファテーブルでスマホが震えた。マリアからだった。電話の向こうからコンビニの出入口のチャイムが聞こえた。


 イシグロは読んでいた小説をガラステーブルに伏せた。持たされた小説はほぼ読み終えていたが、今は何となく読む気にもなれないで置いておいたライトノベルと言われる興味のないものを読んでいる。


『今すぐ逃げて。狙われてる』

「今どこだ」

『いいから早く逃げて。わたしはこのまま部屋には戻らない。尾行されてるみたい』


 激しい呼吸がした。

 歩きながら話しているのだ。


「何人いる」

『わからない。今すぐに一人で逃げて。おカネは例のところに隠してあるから』

「落ち合おう」

『来なくていい。今こんなこと言いたくはないけど一緒にいられて幸せだった』

「泣くな」


 クロゼットに掛けてあるジャケットに袖を通して、内ポケットの中の自動式拳銃とポケットの予備のマガジンを調べると、風呂場の換気口からリュック鞄を引っ張り出した。


 コミカライズ第三巻発売中!

 アニメ化決定!

 表紙に破れかけた帯がある。

 一巻膨らませすぎだろと思う。


『あなたに救われて、一緒に生きてこられただけ幸せよ。死ぬのは構わないけど、このことだけは忘れたくない。浮気しないでね』

「マリア、諦めるな。別のこと考えろ。浮気したことないぞ。にしてもこの小説人気あるのか?」

『そんなの知らないわよ。ブックボブで適当に選んで適当に詰め込んだんだから』


 マリアは笑おうとしていた。


『組織から逃げられない。ヒドラみたいに奴らは次から次へと生まれるのよ。ね、もう一度言うわ。わたしはあなたに救われて幸せ』

「おまえを守るためになら天使でも死神でも何にでもなる」

『グロウが天使だなんて。せいぜいなれても死神よ。どこで落ち合えばいい?ああ、ダメ。わたしのことはいいから。でも離れたくないの』

「川沿いの駐車馬だ。月極のところに置いてある中古マツダだ。マフラーに鍵を入れてある」

『待ってる』


 発砲音が聞こえた。

 スマホが跳ねる音。

 会話が途絶えた。


 イシグロはテレビの後ろから自動式拳銃を出してきて、薬室に弾があるのか調べた。キッチンの床下収納からリュックを出し、クロゼットにあるジャケットに袖を通してポケットに文庫本を突き刺すと、天井裏へと逃れた。


 川沿いに面した月極の駐車場にマツダが置かれていた。どこの町工場から持ってきたのかというくらい古い。実際走るかどうか怪しすぎて誰にも見向きもされない。すらっとしたマリアがいたので、イシグロは警戒しながらもマツダに近づくと、マリアの金髪が揺れた。

 腕はドアに手錠で繋がれていた。


「逃げて!」


 マツダが爆発した。

 爆風に押されて、草むらを逃げた。

 後ろから何人か追いかけてきたが、何人か撃ち殺した。土手を転げ落ちて、彼女が死ぬことなんて考えられるかと言い聞かせた。


 こんなの演出だ。

 サプライズだ。


 イシグロもマリアも別のところで生まれて育てられた。マリアは児童ポルノ、イシグロは自爆テロの道具として育てられた。自爆テロの前に紹介され、一晩共にしたのがマリアだ。


『怖くないの?』

『怖いという気持ちがわからない』

『生きたいと思わない?わたしは他人に抱かれるたびに死にたくなる。毎夜何度も死んで、また朝日とともに蘇る。天使に責められる』

『なら俺は死神になるよ。死ぬときに寄り添えるからな。今夜は生きたい夜にしてやる。だからたくさん話そう。今夜は夢を見たい。好きな人と結婚して子どもがいるんだ。戦争もテロもない平和な世界で子どもを育てて暮らすのはどうだ。僕たちの子どもでなくてもいい。世界の子どもたちだ。いい夢だろう?』

『ええ。いい人ね。ありがとう。抱いてあげるわ。あなたも生きたくなる夜にしてあげる』


 リモコン爆弾が不発で、しようがないのでアジトに戻ると、爆弾を巻き付けたベストを倉庫に隠してマリアとともに逃げることにした。

 途中、アジトが爆発したことを聞いた。


「探し出して幸せにしてやる」


 拳銃をくわえた。

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