九話 桃の香りと蟲入り琥珀
呂充媛の殿舎は、朱色の柱に金の細工が施された美しい建物だった。飾り窓の格子は草花の形を模っている。
「医女の杏雪にございます」
部屋の中には護甲で爪を保護した呂充媛が果物を摘みながら待っていた。長椅子に腰掛け、くつろいでいるように見える。
「身体に目に見えて不調があるわけではないのだけれど、最近気分が落ち込むことが増えて。医女様に、これを解決できるかしら?」
呂充媛は噂の医女の実力を試してやろうと思い呼んだのだろう。手袋越しの触診、舌診などを終え、気分の落ち込みを具体的に聞き取りをする。
「気虚の状態です。薬を調えます」
厨を借りて、露葉閣から花琳と虞淵に頼んで食材を取り寄せる。
人参、大棗、山薬、干し蓮の実、玄米、南瓜を用意する。米はもち米と玄米を合わせて小鍋に入れ、南瓜と人参をすり潰すように粥に合わせた。湯気の立つ粥の表面に、棗がふっくらと割れて赤黒い実をのぞかせていた。
「調いました。気虚のための補気粥です」
呂充媛は苦い丸薬でも出てくると思っていたのだろう。蓋を開けたら、湯気が立っている粥が出て来て驚いたように粥と杏雪を交互に見つめた。
「これが薬だというの? 朝粥より見た目が粗末じゃない。油条は無いの?」
「呂充媛様、これは薬膳ですので」
少し拗ねたように呂充媛は匙を取ると粥を掬って口に入れた。頬がすこしあからんで口元が緩む。美味しかったのだろう。
「ふん…まぁまぁね」
呂充媛はそう言いながらも「出されたものを食べないのは失礼だから」と言い訳しながら粥を完食した。杏雪は盆に茶器を載せて運んでくる。
「食後のお茶をどうぞ」
香橙皮、陳皮、薄荷などを独自に配合した緑茶葉を淹れた「香橙陳皮茶」だ。柑橘の爽やかな香りに薄荷のすっきりとした後味が、鬱々とした気分を和らげてくれる。
呂充媛は茶を一口飲むと、ほぉっと息を吐いた。瞬きの回数、呼吸の調子、筋肉の緩みから、呂充媛の緊張が解けたことを杏雪は感じ取った。
「不安に陥った時は、温かい飲み物を飲むと良いです」
杏雪がそう言うと、呂充媛は「この茶は気に入ったわ」と呟いた。杏雪は独自配合した茶葉を作り置きして、無くなった頃に報せたらまた作ると言って呂充媛の殿舎を出た。
「茶葉の調合もできちゃうのネ」
殿舎を出たところで、虞淵が感心したように杏雪を褒めた。茶も薬の一種である。生薬の効能と茶葉の効能を頭に入れていれば、症状に合わせて調合が可能だ。そう話したら、花琳は「全部は覚えられませんよぉ〜」と泣き真似をした。花琳からすれば人から離れた技だったらしい。
杏雪の頭の中には一冊の書がある。父から教えられて来たことを書き留めたような書が。それをめくれば、杏雪は父の思い出と一緒に知識を思い出すことができる。
杏雪は緑茶に蜂蜜を入れるのが好きだった。父は「邪道だなぁ」と言いながらも、それを止めはしなかったし愛おしそうに見つめてきた。父は杏雪の顔を見ながらちびちびと薬酒を飲むのが好きそうだった。
「帰ったら飲茶にしましょうか」
杏雪がそう言うと、花琳は飛び上がりそうなくらい喜んだ。
「やったぁ! 点心、甜食が食べたいですねぇ」
「チョット、花琳。お嬢に作らせるんじゃなくて、アタシたちが作るんだからネ!」
虞淵は軽く跳ねながら歩く花琳の頭を軽く叩いた。そこには確かな情があり、簡単に人と触れ合うことを杏雪に羨ましがらせると同時に胸を締め付けた。自分の呪われた身が恨めしい。だからこそ、昊天との思い出は宝石のように輝いていた。
露葉閣に戻ると、門の前に宦官が待っていた。妃嬪の遣いかと思ったが、宦官が抱える四爪の龍の紋章が刻まれた桐箱を抱えているのを見て、それが昊天の遣いだと言うことがわかった。
「杏雪様に、第一皇子殿下より贈り物にございます」
昊天の宦官から虞淵が桐箱を受け取る。中に入って早速、桐箱を開けてみると杏の花の意匠の香炉に甘い香りの香がついていた。
「あら、これ蟠桃の香ヨ、お嬢」
僅かに香る香の匂いから、虞淵はそれが蟠桃の香であると見抜いた。蟠桃の香は桃の木を主軸にし、蘭や金木犀で華やかな香りを、丁子や肉桂で甘く刺激的な香りを、蜂蜜のような香りを放つ蜜香や蘇合香を合わせて、まるで瑞々しい桃のような香りを再現した高級な香だ。
まるで仙女がつけているような香りだ、と言うことで「蟠桃の香」と呼ばれている。微かに桃のような匂いが香り、甘ったるくなく甘い中にも少しの苦味を感じさせるような上品な匂いだ。
「昊天殿下はお優しい方です…」
杏雪は香りを楽しみながら、微笑んだ。姚貴妃の嫌がらせを受けた杏雪がまた嫌がらせを受けないように、姚貴妃が文句をつけられないような香を贈ってくれた。
「ナカナカ喰えない男じゃナイ」
虞淵は腕を組んで、少し険しい顔をした。「何でですか?」と花琳が尋ねる。
「あら、花琳はわからない? おこちゃまネ〜。男が女に香りを贈る。自分好みの匂いを纏えっていう独占欲ヨ〜」
虞淵がにやにやしながら、杏雪を見つめる。
「あ、杏雪様、顔が真っ赤です!」
花琳が指摘する。気づかないでいて欲しかった、と杏雪は思った。杏雪は元が白いから熱が篭ったらすぐに赤くなってしまう。毒の摂取により病知らずとなった杏雪の身体で、顔が赤くなるのは病気による熱ではない。照れからの熱であることは杏雪自身がよく知っていた。
「マァ、お嬢も香をつけてお洒落を楽しめばイイワ。お嬢ったら、簪一本しかつけてないじゃナイ」
虞淵が珊瑚や、瑪瑙、翡翠など様々な簪を出してくる。どれも綺麗だったが、杏雪はつけるのを断った。医女に華美な装飾はいらない。
「この琥珀の簪は、父から貰ったものなんです」
杏雪はそっと簪に触れた。蟲入り琥珀の簪である。父が杏雪も年頃の女の子のようにお洒落したいだろうと、贈ってくれたものだ。それまで、父は杏雪に地味な、まるで男の子のような格好ばかりさせていた。それは龍帝に追われている中で、少しでも杏雪が助かるための小さな足掻きだった。
でも杏雪が女の子の簪を羨ましそうに眺めていたのを知った父は、珍しい蟲入り琥珀を手に入れ、それを職人に頼んで特別に簪にしてもらったのだ。
琥珀は宝石だけど、元は樹液だった。だから蟲を閉じ込めることができる。杏雪はただの宝石よりも、元は樹液だった琥珀こそが自分に似合うと感じていた。
「それ…蟲入り琥珀じゃナイ。好事家たちは集めるらしいけど、髪飾りにはチョット合わないんじゃナイ?」
虞淵は杏雪の琥珀の中で眠る毒蜘蛛を見ながら、眉を顰めた。
「私にはこれがいいんです」
杏雪はもういない父の後ろ姿を思い浮かべた。「贈り物だよ」そう言って杏雪に簪を渡して、照れ臭かったのかすぐに顔を背けてしまった父。そしていつものように調薬するために薬研を使い始めた。衣服に染みついた植物の汁の匂いが父の体臭と混ざって、杏雪の知る父の匂いになっていく。
「もう! 早く飲茶にしましょう! 私は点心を作るので小姐はお茶淹れてください」
花琳がお腹を鳴らしながら我慢ならないというように叫んだ。花琳の腹の音は彼女の叫び声に勝るとも劣らず響いていた。
虞淵が淹れてくれたお茶は淹れ方がうまいのか、お茶本来の馥郁たる香りを存分に味わえた。花琳の作ってくれた包子はねっとりとした餡子の中に扁桃のような匂いがした。
花琳は包子を頬張る杏雪を「おいしいですか?」と不安そうに見守っていた。杏雪は油分で潤った唇を舌でひと舐めする。
「大変、美味です」
杏雪が微笑むと花琳は安心したように息を吐いて笑った。




