八話 花の微笑み
「医女ちゃん、少し臭うわよ。お香は何を使っているの?」
姚 桜玉。貴妃の座に君臨する美女である。水族の出身で、春の花のように咲き誇る美貌を持つ。瞳は潤んでいて、慈悲深そうだが冷たく杏雪たちを見つめていた。
「香は特に使っておりません。衣服や身体は清潔に保っておりますが、臭いますでしょうか」
自分ではわからないかもしれないと杏雪は袖を鼻に押し当てて嗅いでみる。
「うふふ、死臭がするわ。やはり毒姫は死を運ぶからかしら」
姚貴妃は微笑みを浮かべたままだ。杏雪は自分から死臭がするのかと真剣に嗅いでみるが、わからない。戦場にいた頃には、死体の山を見ることはあったが後宮に来てからはまだ死体を見たことはない。午前に診た患者も全て生者であり、生きたまま帰すことができた。
隣で虞淵が拳を強く握りしめた。
「毒姫っていうと、 龍帝陛下のお気に入りの房中術の手練手管を仕込んだ間諜ですか? 龍帝陛下が直々に訓練しているとか…」
貴妃の隣に侍る宦官の男が笑みを浮かべながら尋ねた。ここでようやく、杏雪は自分が馬鹿にされているのだと知った。
「チョット…」
虞淵が我慢ならないというように、口を開きかけた時、もう一つの行列が杏雪たちがいる側から橋を渡ってきた。
「それは聞き捨てなりません」
四爪の蟠龍の紫の衣を着た第一王子、昊天が侍従たちを従えてこちらに歩いて来た。杏雪は久しぶりに見る昊天の姿に安心してしまった。顔色は良好、健康そうだ。杏雪に触れた痺れはしばらく残る。だから、彼がまだ毒の痺れに苦しんでいたらと心配だった。
「貴妃は下々の者の教育がなっていないのではないか」
四爪の龍は五爪の龍の下の位だ。五爪の龍は龍帝にしか許されない。衣服から一瞬にして昊天の身分を読み取っただろう。
「まあ、第一皇子殿下。ほんの戯れですわ。うふふ。本当のことを言っただけだけど、気に障ったならごめんなさい。ほら、羅も」
姚貴妃は愛おしそうに隣にいた羅と呼ばれる宦官の名前を読んだ。そこにだけ気持ちが込められていて、ごめんなさいには全く気持ちが込められていなかった。羅は不服そうに「申し訳ありません」と謝ったが、全くそうは思っていないように思えた。
そうして、ようやく貴妃の列は橋を渡り、杏雪たちの目の前からいなくなった。
「ありがとうございました。昊天殿下」
杏雪は久しぶりに昊天の顔が見れたことが嬉しかった。しかし、昊天は苦い顔をしていた。顔が見たいと思っていたのは杏雪だけで、彼はそうではないのかもしれないと不安になる。
「あんな侮辱を受けたら、私に言ってください。到底、許していい行いではありません」
昊天は怒っているようだった。杏雪のために。その姿に、杏雪は父の姿を思い出した。白銀の髪を恐れられ、滞在していた村の子供たちに、石を投げられた時父は怒ってくれた。
「いえ、私が後宮でどのように思われているかわかりましたから」
毒姫という呼称は広まっていたが、その実態を知っているのは董将軍や昊天だけらしい。毒姫の毒は比喩のように思われていて、実際に身体に毒を秘めているとは思われていないのだろう。敵を籠絡する間諜のように思われているのだ。
「気づかないうちに、私から死臭がしていたのかもしれません。患者たちにも悪影響ですので、指摘してもらって幸いでした」
「なっ…」
杏雪の言葉に昊天は驚いたように目を見開いた後、言葉を失ったように固まった。すると、我慢ならないというように虞淵が口を開いた。
「チョット、お嬢! そばにいるアタシから言わせてもらうとね、お嬢は全然臭くないワヨ。姚貴妃の嫌がらせヨ」
虞淵の拳は綺麗に手入れされた爪が肌に食い込むほど強く握られていた。虞淵も昊天と同じく怒ってくれていたのだと杏雪は胸に温かいものが広がる。
「貴妃様って春の花精みたいな方だと思ってたので、なんだか意外です…」
花琳が戸惑ったように、姚貴妃が去った橋の向こう側を見つめていた。姚貴妃が誰かを明確に攻撃した、などという噂は聞いたことがない。むしろ、争い事を避けるような人柄らしい。
「病や痛みで人が変わった…ということもあるかもしれませんね。姚貴妃様は瞳孔が異様に開いておりましたから、何かしらの病を抱えていらっしゃる可能性があります」
杏雪がそう言うと、「気づかなかったです!」と花琳は驚いたように声を上げた。
「仮に病人だからといって、人を侮辱していい理由にはならない。杏雪、あなたの尊厳が傷つけられたら悲しいし怒るよ」
昊天はそう言うと、侍従たちを従えて去って言った。虞淵は「ナカナカ男前じゃナイ」と昊天のことを気に入ったようだった。
「姚貴妃様、病気なんですかね…」
花琳が同情するような呟くと、杏雪は首を振った。
「先程は、昊天殿下の手前でしたから病や痛みと濁しましたが、瞳孔の拡大、人格の変化…私は直感的に何か薬の影響があるのではと考えました」
「まさか、薬物中毒ってことですか!?」
花琳が驚いて叫びそうになるのを、虞淵が口を塞いだ。
「薬物って…阿芙蓉だったりしないカシラ」
虞淵は周りを気にして声を顰めた。驚きでまた花琳が叫び出しそうな口を虞淵が押さえる。
「わかりません。阿芙蓉中毒にしては、受け答えがはっきりしてました。中毒の初期段階という線も考えられますが。黄色い肌、落ち窪んだ目、歯が抜ける…などが阿芙蓉中毒者の状態です」
杏雪は父に教えられた症状を挙げていったが、姚貴妃には当てはまらないような気がした。昔、貧民窟で路上に座り込みうわごとを呟いている薬物患者を見たことがある。流浪の名医としてその辺りで名が通っていた父はその人を治療しようとした。
「本当に治す気があるなら、治療します。ただし、治す気がないなら私は救えません」
父はそう言っていた。結局、薬物患者は薬がみせる夢の中で生きることを選び、父は治療をやめた。救えない人がいることを、杏雪はその時初めて知った。誰もを救う名医の父が救えなかった患者がいることも衝撃だった。
「とにかく、今は姚貴妃様の状態は置いておいて。呂充媛様の元へ向かいましょう」
杏雪は自分の気のせいかもしれないと言い聞かせて、呂充媛の殿舎に向かった。




