七話 花の微笑み
医女としての杏雪は、王婕妤の一件で、同時に患者が出た時に高い階級の妃嬪が優先され、後回しにされがちな下級の妃嬪たちにとって弱者の救世主として評判になっていた。
杏雪は患者を断らない。それは戦場の頃からの習慣だった。負傷兵を治療し、時にはかつての敵兵を治療することもあった。患者に貴賎も敵味方もないというのが杏雪の信条だ。董将軍には呆れられたが、杏雪はこの信条を曲げたことはなかった。
「杏雪様、次の患者様です!」
花琳が露葉閣に患者たちを通す。露葉閣の前には気軽に医療にかかれない官女たちが詰めかけていた。新しく来た医女様は患者を断らないらしいという噂のおかげだ。
「医女様! どうかお助けください。風邪だとは思うのですが、長引いて。これでは仕事に支障が出てしまいます」
「そんなに慌てずに。まず、顔色を見せてください」
杏雪は向かい合うように患者を椅子に座らせた。顔色は赤いと熱、白いと寒、黄色いと脾虚、青黒いと気滞・血瘀と大まかな治療の指針となる。
「では、次に舌を」
赤い舌に黄苔は熱、白苔だと寒、むくんだ舌だと湿といったように診断は重要だ。
「体温はどうですか? 暑かったり、寒かったり。手足の冷えはありますか?」
これは身体の陰陽の調和を見る。これは陽が多ければいいというわけではなく、全ては調和である。陰と陽がちょうど半分ずつあるのが望ましい。これは龍帝との房事の際にも重要な情報だ。
月のものが来ると陰の気が強くなるので、房事は避けられる。
「尿や便の色や回数を教えてくださいますか? すみません、恥ずかしがらずにお願いします。水分代謝と臓腑の健康を診るのに必要なのです」
そのあと、杏雪は気分はどうだとか、月経の周期や量、痛みを尋ねた。患者である女官は少し恥ずかしそうにしながらも、同性の杏雪を信頼して話してくれた。杏雪は一つ一つ丁寧に紙に書き込んでいく。
「水の気の乱れによる、寒湿ですね。冷えと水分代謝の異常です」
患者である女官は冷えとだるさを訴えており、手足にむくみがあった。下痢と透明な尿が多数あり、食欲不振がある。舌診のとき、白い苔がついていた。
「薬を調えます。お待ちください」
杏雪が露葉閣の厨に向かうと、虞淵が待っていた。花琳には診察室とした部屋で患者が急変しないか見てもらっている。薬膳閣に生薬や食材が運び込まれてくるので、わざわざ尚食局まで出向かなくとも良くなった。
「お嬢、準備しといたワヨ〜」
虞淵が食材をいれた籠を持って来てくれた。
「ありがとうございます」
杏雪は手袋をしっかりしているの確かめてから、調薬に取り掛かった。
羊肉を下処理していく。生姜と肉桂、陳皮、棗を肉にすり込んでいき、胡桃を練ったものをまたすり込んでいく。熱した鉄板に羊肉を置くとじゅうじゅうという音とともに、香ばしい匂いが漂う。
「美味しそうな匂いネ。これが薬だなんて信じられないワ」
羊肉の下処理を手伝ってくれていた虞淵が鉄板で焼かれている肉を見て呟いた。
「羊肉は味に癖がありますから、香辛料で味を整えています。胡桃と羊肉は温陽と補腎を。腎と脾の機能低下が見られましたから。生姜と肉桂で中焦を温め、気を巡らせます。棗は補気、緩和作用を。寒さを取り除き、冷えを温めて巡りを促進する薬膳です」
焼き目のついた羊肉を鉄板から引き上げると、一口の大きさに切って皿に盛り付けた葱を散らして完成だ。
「調いました。温陽化水膳、胡桃の羊肉焼きです」
羊肉が乗った皿を患者の女官の目の前に置くと、女官は戸惑った。
「私のような身分が肉を食べてもよろしいのですか?」
「薬は誰にでも平等です。どうぞ召し上がってください」
杏雪の言葉に女官はごくりと唾を飲み込んだ。箸をとり、肉をつまむ。恐る恐る口の中に肉を入れると顔が綻んだ。ほろほろと崩れていく肉、香辛料が体を温めてくれる。
「おいしい。ありがとうございます」
女官は涙を流しながら、感謝した。杏雪はここまで人から感謝されたことがなく戸惑った。ふと、戦場で治療しようとした敵の兵士に治療を拒まれたことを思い出した。
「触るな、毒姫」
男は息も絶え絶えに血を吐きながら、そう言った。杏雪は手袋をしていたので構わず出血箇所を止血しようと清潔な布を掴み手を伸ばせば、払い除けられた。その怪我からは想像もつかないほど、強い力だった。
「汚れる」
男はそう吐き捨てて、治療を拒みそのまま死んだ。助けられなかった無力感と、人が一人目の前で死んだのに杏雪は自分の無力さを嘆くばかりで、その人が死んだことを悲しんでやる余裕もなかった。人の死を悼むより先に自分のことばかりを考える浅ましさが嫌だった。
「ありがとうございます、医女様!」
患者の声に、杏雪は戦場から露葉閣に引き戻された。目の前の患者を救えた実感が冷たい記憶と隣り合って杏雪の中にあった。
午前中は、露葉閣に来てくれた下級の女官たちをあらかた診察し終えてしまうと、午後は呂充媛という妃嬪の殿舎に呼ばれていた。充媛は九嬪に属する階級であり、妃の下に当たる。
呂充媛は王婕妤と仲が良く、王婕妤が入内する際に後ろ盾となったらしく家同士の繋がりがある。王婕妤が杏雪のことを褒めていたから、自分も診てもらいたくなったらしい。今朝方、呂充媛の侍女がそれを伝えに来た。
杏雪は往診の準備を済ますと、花琳と虞淵を連れて呂充媛の殿舎がある東側に向かった。王婕妤の殿舎も近くにある。二人は近所なので茶飲み友達のような関係らしい。
赤く腫れた痛々しい少女だった王婕妤が後宮で心を開ける友人と呼べる人がいたことに杏雪は安堵した。自分の患者となった王婕妤に少し肩入れしてしまっているのかもしれない。
東の区画に入るには、人工の小川が流れているので朱塗りの橋を渡らなくてはならなかった。川沿いに柳が植えられ、風に靡いている。
橋の向こう側から、金色、赤色、様々な色で刺繍の施された襦裙の上に披帛を纏う美女が、宮女と宦官達が作る列の中を、従者を付き従えさせ歩き進んで来る。
その美姫が側仕えの絹傘の下から一歩優雅に踏み出した。すっきりとした額には花鈿と呼ばれる花を模した模様が紅で描かれ、複雑に結われた髪には生花がたっぷりと挿れられている。
薄紅色の上襦と萌黄色の裾には牡丹が大胆に舞っていた。髪の垂れ飾りと足元の小さな履物には白蝶貝の蝶がきらりと光る。薄絹に刺繍が施されている団扇を手に持っている。
「姚貴妃の列ヨ」
虞淵が杏雪に耳打ちする。杏雪たちは端に寄り、列が通り過ぎるまで頭を下げる。しかし、何故か列は杏雪の前で止まった。
「臭うわぁ…」
艶やかな紅が塗られた唇から、一言漏れた。近くにいた宦官が「どうかなさいましたか」と尋ねる。
「血の臭いがするわ」
姚貴妃は口元を団扇で隠しながら、杏雪たちを見た。
「あら、噂の医女ちゃんたちじゃない。ごきげんよう」
姚貴妃は花のように笑った。しかし、瞳だけは冷たく氷のようだった。獲物を狩るような鋭い視線に、杏雪は早く通り過ぎてくれと願った。




