四話 医女への転身
「昊天がお前を毒姫の任から解放してほしいと言ってな。杏雪、お前は毒姫を辞めたいか?」
鬼の顔が動いた。本当は人の顔なのだろうが、閨に連れ込まれ事が未遂に終わった時から杏雪には龍帝の顔が鬼に見えるようになった。
「對国の征服により、近隣諸国の平定が終わりました。今は肥大化した国の内に目を配るべき時期かと。毒姫は、しばらく役に立ちそうにありません。そして望むならば、私は医として生きたいと思います」
この男は杏雪を殺せない。髪の色こそ違えど、雅蘭に瓜二つの杏雪を龍帝は手に入れたいのだから。杏雪は震える足を布の上から摘んで震えを収めようとする。
手袋越しの手が今はまだ温もりを残していた。今まで死体の冷たさしか知らなかった杏雪に、昊天は危険をおかしてまで人の温もりを教えてくれた。それが嬉しかった。
最初は龍帝の血族だからと、少し警戒していた。だが、彼は本当に龍帝と血が繋がっているのかと疑いたくなるほど、優しい人だった。きっと彼の言葉の言うとおりだろう。生まれよりどう生きるか。
「そうか」
鬼の顔は少し悩ましげに歪んだように見えた。
「よかろう。柳 杏雪、そなたを後宮の医女に命じる」
拝命いたしました、と杏雪は膝をついて頭を下げる。毒姫が有用でなくなった以上、索蒙も、杏雪を手元に置き続ける理由が欲しかったのだろう。姪とはいえ、降嫁した公主の娘なのだ。本来ならば、父方の一族である刀圭の一族が身元を引き受けるべきだが、父である智衡は追放されている。
柳一族が皇帝と対峙してまで、追放した男の娘を引き受けるとは思えない。
杏雪は静かに玉座の間を後にした。最後まで龍帝の視線が粘っこく杏雪に絡みついていた。
***
杏雪に与えられた後宮の南側に佇む露葉閣は本来は、公主に与えられる住まいだ。しかし、実の娘や息子たちより、龍帝が姪である杏雪を寵愛しているのは周知の事実であり、帝位につく際「天」の字を賜った長兄はおろか兄弟全てを殺した索蒙を恐れ誰も文句を言わなかった。
露葉閣は緩やかに反り返る翡翠色に釉薬がけされた青瓦に、棟には金の鳳凰飾りが。扉や柱には牡丹・鳳凰・雲文が彫られ、玉石をあしらった欄干、 庭園には柳と桃の木、蓮池、錦鯉が泳ぐ小川が巡る。
「お待ちしてたワヨ、お嬢」
露葉閣の門の前にいたのは、長髪を緩く三つ編みにした宦官だった。性を切り離されているとはいえ、元は男だろうに女のような中性的な顔をしていた。
「お嬢…とは私のことですか?」
杏雪は首を傾げながら尋ねた。
「他に誰がいるノヨ。アタシは蔡 虞淵。主人不在の露葉閣を管理してる宦官ヨ。これからはお嬢付きの宦官になるワネ」
「私は誰かに仕えてもらうほどの者ではありませんが」
杏雪は毒姫から医女へと立場を変えた。毒姫は正式な位や地位はなく、龍帝が董将軍に預けた武器扱いなので杏雪という存在は曖昧な立場にあった。しかし、後宮の官女の身分の一つである医女を拝命したことで立場は明確になった。
しかし、医女は召使いの立場であり妃ではないので本来お付きの宦官を従える立場にない。
「龍帝陛下が、お嬢のためにって特例ヨ。あとお嬢付きの女官が一人居るんだけど、あのコ今日から宮廷勤めだから迷子になっちゃったのカシラ。遅れてるのヨ」
も〜困っちゃうワヨネ、と虞淵がため息を吐いた時だった。遠くから駆けてくる音が聞こえる。息を切らしながら、一人の少女が走ってきた。二つのお団子頭のあどけなさ残る顔立ちをしている。
「す、すみませ〜ん。遅れちゃいまし──ぶふっ」
少女は杏雪の目の前で転んだ。石もない何も無いところで、華麗にすっ転んだ。それはもう見事としか言いようがなかった。
杏雪は手を差し伸べようとしたが、土埃がついた少女の顔の肉が腐り落ち、眼球があったはずの穴から血が流れ落ちる幻を見て、思わず手を引っ込めてしまった。今は手袋をしているとはいえ、うっかり外れてしまったら少女を殺してしまうかもしれない。
少女は衣についた土埃を払いながら立ち上がると頭を下げた。
「遅れて申し訳ありません! 群主様。群主付き女官の花琳と申します」
群主は皇帝の姪などに与えられる称号だ。しかし、今の杏雪は群主よりも医女という地位にいる。お姫様扱いは性に合わない。
「群主はむず痒いのでやめてください。杏雪と気軽に呼んでくれればいいです」
「そ…そんな! 呼び捨てなんて滅相もない! じゃあ、杏雪様とお呼びします」
杏雪は花琳の顔が健康的に肉がついていて、血色も良く若々しさに満ちているのを見て安心した。先程の骸はやはり、幻だったのだ。杏雪の心の中の恐怖が見せる幻。
「アタシはお嬢呼びをやめないワヨ」
虞淵は満面の笑みを浮かべていた。きっと虞淵を「お嬢」呼びから変えさせるのは骨が折れるだろうと思わせるほど、迫力のある笑みだった。杏雪は仕方なく、虞淵の「お嬢」呼びは受け入れることにした。群主様呼びよりはいくらか軽い響きだから。
「じゃあ、露葉閣の案内するワヨ〜。広いから迷子にならないようにネ」
虞淵が特に花琳を見ながら「迷子」という言葉を言った。花琳は「ひゃ…ひゃい!」と返事を噛んでしまっており、迷子になっていたという虞淵の予想は当たっているのかもしれない。
露葉閣に入って最初に辿り着くのは正殿、玉瑛殿である。客人を迎える広間だ。
次に、煙霞閣。書斎を兼ねた楼閣であり高台から池を望めるようになっている。瑤池苑と呼ばれる院子は、仙界を模した造園で夜には灯籠が水面に映る。
青鸞房は居室であり、青磁と白玉を基調にした静謐な空間だ。露葉閣のそれぞれの建物を紫雲廊と呼ばれる廊下が繋いでいる。
「ふえぇ〜、煌びやか過ぎます!」
様々な調度品に驚き、花琳は大理石の床で滑って転んだ。「ドジねぇ〜」と虞淵が仕方がなさそうに手を貸してやっている。自然と人を助けられるのが、杏雪にとっては羨ましかった。そっと手を握る。手袋の布の感覚が伝わるだけで、そこに人肌の暖かさはなかった。
昊天──彼がくれた温もりが、人生で初めてだった。痺れたはずなのに、痛みがあったはずなのに、彼は笑った。死体の冷たさしか知らなかった杏雪に体温を教えてくれた人。彼の顔が浮かんだ。
「イイ!? 花琳。ここにある壺とか、掛け軸とかアンタのお給料じゃ、一生かかっても払えないんだから壊さないようにネ」
「ひえぇ〜怖いです!」
虞淵が脅すように言うと花琳は震え上がった。
「あまり心配する必要はございません。医女に華美な調度品は不用です。最低限の家具だけ残し、贅沢品は龍帝陛下にお返しします」
杏雪がそう言うと虞淵は「もったいないワネ〜。貰えるものは貰っときなさいヨ」と不満そうに口を尖らしたが、花琳は高価なものに囲まれているのが先程の虞淵の脅しもあって、不安なのか杏雪の言葉に安堵しているようだ。
「そして空いた部屋を薬草の貯蔵室にします。書斎は医学、薬学の書を書く収め、私室は調薬ができるように薬研などを置きます。この際、煙霞閣は薬膳閣に名を変えましょう」
「大改造じゃナイ、お嬢」
虞淵が面白そうな視線を向けた。これから忙しくなると意気込んでいるのだろう。杏雪は虞淵と花琳を見つめた。自分に預けられた宦官と女官。
自ら望んで主人になったわけではないが、杏雪付きとなったからには彼女らに相応しい主人であらねばならないと、杏雪は自分の身を引き締めた。




