三十六話 赦しの行方
冬の寒さが和らぎ、春の訪れを感じさせる日だった。毎年、杏雪はこの時期になると春の雪解け水を飲むのが習慣だったが、もう毒を体内に溜めなくていいので飲まなかった。
飲まなかったら、何だか体がそわそわして落ち着かない。虞淵や花琳からも、心配されるほどだった。柳太医丞に相談すれば、それは離脱症状だから、耐えるしか無いと言われた。
昊天への恋心と毒の離脱症状に苦しむ杏雪は、不調を見抜かれたのか花琳に「杏雪様は休んでいてください!」と半ば強制的に寝室へ連れて行かれてしまった。
寝室で一人、残された杏雪は気持ちを落ち着けるために、スミレの薬膳茶を淹れてみたりした。スミレは食用や薬用としても用いられ、山菜として、花の二杯酢、葉の和え物、浸し物、煮物、炸山菜などがある。
ニオイスミレの種と根には毒が含まれていて、非常に危険で、食べるときは花と葉だけにするのが普通だが、以前の杏雪は根と種を余すことなく食していた。野菜の端切れ、魚の骨は煎餅にして、食材を無駄にすることなく食べるのが杏雪の信念だ。
薬用としては、血圧を下げる作用のあるため、お茶にして飲む民間療法がある。今回はそれを参考にしてみた。また、新鮮な葉をよくもんで傷口や腫れものに貼ると、解毒や腫れをとる効果もある。
ニオイスミレの性質は穏やかで、副作用を感じさせることは少ない。性質の強さは四度に分かれる。カモミールは熱性一度、セイホク甘草は乾性一度、スミミザクラ湿性第一度、ニオイスミレは寒性一度だ。
効果が体で感じられる程度にあり、副作用が少ないのが二度。サフランは熱性二度、ショウガは乾性二度、ヨザキスイレン湿性二度、レタスは寒性二度など。
三度は二度より強い効果があり、副作用があっても致命的ではない。カミメボウキは熱性三度、 馬歯莧は寒性三度、ブラッククミンは乾性三度、ダイダイは湿性三度など。
四度は三度より強い効果があり、有毒なものも含まれる。ニンニクは熱性四度、芥子は寒性四度、鬼灯寒性四度、マンダラゲは乾性四度など。
安神のスミレの薬膳茶を飲んでみたものの、やはり焦りは消えなかった。香でも焚いて気分を変えようと香木などが入った棚を開けると、蟠桃の香が目についた。
杏雪は薬膳だけでなく、鍼灸や按摩も治療法に入れていたから、安眠できる植物を調合した練香や香木を棚にしまっていた。蟠桃の香に手を伸ばし、香炉に入れて火をつける。煙が薄らと浮かび上がって甘くもほろ苦さを抱えた香りが部屋に充満した。砂糖を焦がしたような匂いがする。
杏雪は蟠桃の香で体が包まれると、昊天に抱きしめられているような感覚がした。
部屋は必要最低限のものしか置いていない。しかし、水晶製の寝台だけは動かすことが困難で、そのまま使っている。これは母の遺品というよりも、龍帝が雅蘭に帰ってきてほしくて用意した物だろう。
露葉閣にはそういった一新された豪華な調度品ばかりで、父から話に聞いていた純朴で楚々とした母の姿の面影は一つも無い。
虞淵が秘密裏に保管して守っていてくれた披帛は実はとても貴重な品だったのでは無いかと思えてくる。遺品の披帛は龍帝が最後の時も離さず持っていたという理由から、副葬品として埋葬されてしまった。
死後硬直で固まり、検屍の際に温めて手から披帛を取り外すのに苦労したらしい。
杏雪は今まで雅蘭の遺品を守り続けた虞淵が、杏雪のために遺品を手放さなければならなかった、その重みに潰されそうだった。気づけば香炉には灰が積もって蟠桃の香は燃え尽きていた。
杏雪は虞淵を探した。虞淵は庭で薪を割っているところだった。線が細く中性的な雰囲気を纏う虞淵だが、喉仏は出ているし、腕にもしなやかな筋肉がついていた。
「虞淵…さん…」
杏雪が声をかけると、虞淵は薪割りの手を止めてこちらに振り返った。
「なぁに、お嬢。花琳から休んでろって言われなかった?」
虞淵はいつもと変わらず、中性的で少し妖しげな笑みを浮かべていた。
「いえ、体調は今は大丈夫です。ふと、虞淵さんが母の遺品を私のために龍帝陛下の交渉の材料にしたことを思い出して。ありがとうございました…それと、申し訳ありませんでした」
杏雪が頭を下げると、虞淵は「チョット、なんで謝るのヨ」と困惑していた。露葉閣の隅々まで調べて回った。家具や調度品は全て龍帝がある時期に新しくしたもので、母が使っていたものは何も残っていなかった。あの披帛だけだった。
「母の唯一の遺品を手放す結果になってしまい…虞淵さんに申し訳ないと…」
杏雪がさらに深々と頭を下げるのを、虞淵は肩を軽く掴んで上げさせた。
「確かにあれは最後に残された雅蘭様の遺品だったけど、お嬢を助けるために使ったんだから、きっと雅蘭様も怒らないワヨ」
虞淵は「アタシも全然怒ってないノヨ」と笑顔で続けた。しかし、母にとっては一番憎い男の墓に自分の披帛が埋葬されてしまったことは怒るのでは無いだろうか。杏雪が不安そうにしているのを察してか、虞淵は笑顔を崩さなかった。
「それに、アタシの手元にはまだ雅蘭様が残してくれたものがあるワ」
虞淵が片目を瞑った。
「母の遺品がまだあるのですか?」
杏雪は期待に満ちて、顔を上げた。虞淵は柔らかい穏やかな微笑を浮かべていた。彼は男なのに母性を感じさせた。否、彼は父性と母性の両方を持っている人なのかもしれなかった。
「お嬢のことヨ。雅蘭様はお嬢を残してくれたワ」
虞淵の笑顔は少し泣きそうなのを我慢しているようにも見えた。
「確かにあの披帛は大事だったワ。龍帝陛下と共に埋葬されたことに、アタシもまだ気持ちの整理がついてないのヨ」
虞淵は「チョット昔話になるわね」と雅蘭のことを語り始めた。虞淵は火族の山奥の寒村にて生まれ育ち、口減らし同然に売られるように後宮で宦官になった。
杏雪は虞淵が火族出身だとは知らなかった。虞淵が「この三つ編みは火族の誇りなのヨ」と自身の緩い三つ編みを撫でたのをみて、火族の沈淑妃も髪を三つ編みにしていたことを思い出した。
「師父が雅蘭様付きだったから、アタシも雅蘭様付きになったノ。お優しい方だったわ、雅蘭様は。当時の龍帝陛下からは見向きもされず、周りから蔑まれていたけれど、前向きで明るくて、チョットお転婆だったワ」
虞淵が語るのは杏雪も知らない母の姿だった。母がお転婆だったなんてきっと父も知らなかっただろう。
「雅蘭様が十六歳くらいだったかしら。雅蘭様が弟と一緒に迷い犬を育てると言い出したノ。その弟が、のちの龍帝ヨ」
龍帝、索蒙は巨大児として生まれた。母親はそのせいで難産になり、体形を崩した。骨は歪み、股は裂けて、排泄がうまくできなくなり、常に尿の匂いがしたという。当時の龍帝の寵愛は遠のき、それを索蒙のせいにしたという。
索蒙は食事を抜かれたり激しい体罰を受け、不遇の皇子として後宮内では有名だった。しかし、上に数人の兄がいて帝位継承権の順位も低かったことから、虐待は見てみぬふりをされた。
「龍帝は迷い犬を虐めていたらしいの。それを偶然、雅蘭様が見つけて叱ったみたい。迷い犬を露葉閣で育て始めた。雅蘭様は露葉閣に来る龍帝をもてなし、可愛い弟だと言っていたワ」
まさか…あんなことになるなんてネ…と虞淵は雅蘭の花が散らされた時のことを昨日のことのように思い出したのだろう。笑顔に一瞬だけ影がかかった。
龍帝は雅蘭にはじめて人らしい扱いを受けたのだろう。誰もが見て見ぬ振りをした自分を救ってくれたと神格化したのかもしれない。それの果てが王母娘娘廟の姿絵だろう。
犬を虐めてはならないと叱られた索蒙は、虐待のつらさの捌け口を失い、やがて内に眠る衝動は雅蘭を襲ったのだろう。優しさがこんな形で帰ってくるとは、母は思いもしなかっただろう。この経験がきっと母を歪めたのだ。
「…この話を聞いても、やはり龍帝陛下を許せない、憎い、と感じてしまう私は人としての徳が足りないのでしょうか」
杏雪は龍帝に虐待されていた過去があることなど知らなかった。いつもあの人は恐ろしい鬼であった。
「許さなくていいワヨ。アタシも許してないし。雅蘭様にしたことはいつまで経っても許せないワ」
虞淵の言葉に杏雪は少し救われた気がした。落雷が体を駆け巡るのはどんな激痛なのだろう。しかし、杏雪は龍帝の所業に比べれば安らかな死に方だと思ってしまった。




