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三十五話 不安

 杏雪シンシュエウェイ賢妃の言葉をずっと考えていた。昊天ハオティエンに対して蓋をしていた気持ちが他者から禁じられた途端に溢れ出した。


 杏雪は濁流に溺れるように、自身の感情で息ができなくなっていた。杏雪は急かすように、リウ太医丞に賢者の石の研究について進展は無いか、面会の機会を設けて尋ねた。焦っていたので、今日は供もつけずに一人だ。


 「水銀と金、塩の水溶液を混ぜて錬丹を行った。結果は失敗。文にある通り深紅の石にはならなかった。とりあえず、金に例えられそうなものを片っ端から試している。一朝一夕にはできない。そんなに急かさないでくれ」


 柳太医丞は困ったようにため息を吐き、頭を掻いた。杏雪の言葉に焦りがあることを見透かされている。


 「人間蠱毒を早く解毒したいのです…」


 杏雪は手袋に包まれた手を握りしめた。魏賢妃の言葉は杏雪にとって蓋をしていた気持ちを決壊させるのには十分すぎる威力を持っていた。


 龍帝が近親の禁忌を犯したから、その間違いを繰り返さないために昊天のことは拒絶しなければならない。確かに近親婚の危険性は父から聞いていた。きっと父も母の恥辱を繰り返させまいとしたからだ。


 しかし、魏賢妃の言葉は政治的な意図を含んでいるようにも見えた。杏雪が昊天から身を引くことにより、自分の姪を皇太子妃に、そしてのちの皇后へと据えようとしている。


 何が昊天にとって良いことなのか、わからなくなった。杏雪は昊天と他の誰かが結ばれて幸せになるのを祝福できない。医女としてそばで支えていくことができない。龍帝亡き今、杏雪を後宮に縛る枷はないのだから、後宮から出て父のように流浪の医者になればいい。


 以前の杏雪ならば、医女として昊天のそばにいられればそれで満足だと自分に言い聞かせて身を引いたかもしれない。毒姫には過ぎたものだと、言い訳を重ねて折り合いをつけてきた。今までだってそうだった。


 なのに解毒できるかもしれないという希望が見えれば、みっともなく足掻きたくなる。諦めたくない。杏雪は昊天と出会ってから、わがままになった。


 「確かに、生まれてからずっと身体を蝕んでいた毒を早く解毒したい気持ちはわかる」


 柳太医丞の「蝕んでいる」という表現に杏雪は違和感を覚え、「蝕んでいる…?」と尋ね返していた。毒は体内に在るもので、蝕んでいるとは考えていなかった。


 「その顔色で、毒が蝕んでいないと言いたいのか? 化粧で誤魔化せると思うな。私は医者だぞ」


 柳太医丞の瞳は鋭く杏雪を射抜いていた。杏雪は鉛白入りの白粉が塗られた肌を撫でた。手袋に細かい白い粉が付着する。毒の摂取の中毒のような状態に陥っていることを改めて自覚した。


 「このまま体内に毒を宿し続けたままだと、短命なのは間違い無いだろうな」


 柳太医丞は淡々と告げた。要らぬ感情を言葉に挟み込まない姿勢が、彼の医者としての信念を垣間見ることができた。余命を告げることに慣れたものの口調だった。


 本来、人間蠱毒で生まれるのは毛や歯が生えただけの肉塊。人間の成り損ない。杏雪のように命を持った形で生まれることはなかったのだ。自分の寿命がこのままだと短い可能性を示され、杏雪は胸が締め付けられた。


 「解毒しても健康状態に問題が残るでしょうか。毒に蝕まれた期間、寿命は減って短命でしょうか」


 杏雪は自分に残された道を探るように尋ねる。


 「蠱毒は呪術だ。解毒──解呪できれば、そのまま生きれるだろう。普通の蠱毒の解呪例が、人間蠱毒に適応されるかはわからないが」


 柳太医丞は賢者の石生成の研究資料の紙を紐で綴じて纏めていた。墨の匂いがまだ香るほど新しい。


 「司天監してんかんが発表した、選秀女の吉日に間に合うでしょうか」


 司天監とは、暦の管理、制定、天体観測、吉日を占い祭祀の日程を決める部署だ。選秀女は初春の吉日に行うと発表され、今は神華シェンファ帝国中の未婚の諸侯の翁主おうしゅ(娘)たちに禁婚令が下っている。


 選秀女では正室の皇太子妃の他に良娣、良媛、承徽、昭訓、奉儀などの側室も選ばれる予定だ。今まで杏雪は、健康体であっても厳しい審査で落ちてしまうからと自分を納得させていたが、今はその言葉で納得できないどころか激しく叫び出すように鼓動が荒れた。


 側室でもいい。位のないめかけでもいい。昊天のそばにいたかった。もはや医女として仕えるだけでは、満足できなくなっていた。


 「なるほど。焦っている理由は皇太子殿下か」


 柳太医丞が呟いた。杏雪はもうばれてしまっても良いと思っていた。柳太医丞は言いふらすような人ではない。


 「もし、解毒できたとして。私は皇太子殿下に相応しいでしょうか。魏賢妃様からは血が濃すぎる、先の龍帝陛下の過ちを繰り返すのかと言われました」


 杏雪の声は弱々しく部屋に響いた。


 「確かに龍帝陛下の姉君への執着は異常だった。だからといって、親が異常なら子も異常だと信じるのか? 血が濃いという問題も、皇太子殿下とあなたは十六分の一しか血が繋がっていないじゃないか」


 柳太医丞は杏雪の不安を軽くするように、一つずつ言葉を重ねていった。十六分の一は近親婚による奇形や障害の可能性が普通のいとこ婚より、少ないこと。また神華帝国はいとこ婚を容認しているし、宗室や貴族たちの間でもいとこ婚は容認されてきたこと。


 「しかし、私がもし昊天殿下の妻になれたとしても、私には外戚の力で権力の安定をもたらすことはできません」


 魏賢妃の姪にはそれができる。トゥ族が外戚となり、昊天の治世の安定に協力するだろう。


 「刀圭の一族では駄目か? 医の名門で歴史もある。先の龍帝の手前、引き取ることは叶わなかったが、今の刀圭の一族はあなたを迎え入れることができる」

 

 ぶっきらぼうな言い方ではあったが、柳太医丞の優しさが詰まっていた。「父は破門されたのに…?」と尋ねると、「親と子は違う」と返ってきた。それが先程の、親が異常なら子も異常かという問いの柳太医丞の答えだろう。


 昊天は索蒙スォモンとは違う。それは杏雪がはっきりわかっていた。昊天は杏雪を物としてではなく、人として扱ってくれた。欲の捌け口でもなく、他国を侵略する武器でもなく。

 

 「研究は三交代制で常に誰かしらは研究している状態だ。早く、賢者の石とやらができるよう努力しよう」


 柳太医丞の言葉が波が立って荒れていた杏雪の心を落ち着けさせる薬のようだった。


 「刀圭の一族として正式に迎えてくださりますか」


 杏雪は唾を飲み込み、緊張を抑えながら尋ねた。


 「もちろんだ」


 柳太医丞は力強く頷いた。刀圭の一族の後ろ盾を得て、自分に流れる帝族の血があることで、杏雪は魏賢妃の姪と並んでも遜色ないほどには皇太子妃候補にはなれただろうか。


 あとは、解毒の時を待つだけだ。

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