三十三話 錬丹
その日の夜、杏雪が部屋に戻り、灯りを消そうとした時だった。窓にこつん、と小石が当たるような音がした。
気のせいかと思ったが、またこつんと小石が当たる音がする。流石に人為的なものだろうと、杏雪は窓を開けた。野盗などであれば毒で対抗できる。
しかし、窓の外にいたのは質素な身なりをした昊天だった。
「昊天殿下、どうしてこのような盗人みたいな真似を?」
杏雪が尋ねると、昊天は苦笑した。
「東宮からなかなか出られなかったから、抜け出してきた」
昊天はいつもの四爪の龍に藍と鬱金を決まった配合で重ね染めした特別な青の袍ではなく、下男の格好をしていた。どこかから借りてきて変装したのだろう。
杏雪は燭台の灯りを消す手を止めて、昊天を中に招き入れた。冬の夜は寒い。下男の格好をしていれば、高級な綿入りの外套など羽織れない。霜が降りて、露は冷えていた。
「中へどうぞ。火鉢で暖まっております」
昊天は「ありがとう」と言って中へ入った。耳も指先も寒さで赤くなっている。東宮にいれば火鉢で暖まった室内にいれただろうに、杏雪に会いたいがために寒い中来てくれたのだと思ったら、胸が温かくなった。
「でも、あんまり寒くないんだ。走ってきたから」
昊天は少し恥ずかしそうに呟いた。杏雪は時間が惜しいから走って会いに来てくれたことが嬉しかった。忙しい合間を縫ってそれでも会いたいと思ってくれたのだ。
「…遅くなりましたが、夷狄討伐、ご無事でなによりです。皇太子の就任もおめでとうございます」
杏雪は臣下として拱手した。群主としても医女としても昊天の無事と立場の安定は喜ばしい。
「ありがとう杏雪。…それと、会いたかった」
昊天の言葉に、杏雪は火鉢が当たっている以上に体が暖かくなるのを感じだ。燃えて火傷しそうなほどに肌が熱い。しかし、心地よいとも感じてしまう。昊天が杏雪と同じことを思ってくれていて、嬉しかった。
「私もです。昊天殿下」
隣り合って火鉢にあたりながら、杏雪は昊天の横顔を伺った。肩が触れ合うか触れ合わないかの距離感がもどかしくも心地よい。
「捕虜から、ジャダ石について聞き出した。どうやら夷狄の呪術でも杏雪の毒を解毒することはできないらしい」
昊天の言葉は予想していたが、杏雪は予想していたよりも落胆した。選秀女は迫っているのに。このまま自分の体にある毒のせいで、杏雪は身が悶えるような恋情を一人で抱えていかねばならないのか。母の愛は龍帝の死により、呪いに転じた。
「私は、まだ諦めていないよ」
火鉢の中の炭がぱちりと爆ぜた。ほのかに照らされた昊天の横顔は真剣な表情をしていた。
「人間蠱毒は南方の呪術、蠱毒が刀圭の一族の中で変化したものだと聞いたことがある。何か、お父上は毒について話していたり、書き残していたものはないだろうか」
昊天の言葉に、僅かに希望が灯った。杏雪は父との思い出を振り返る。毒──人間蠱毒の毒性を切らさないために、毒を摂取し続けた思い出しかない。
「…… 金と銀を結び合わせれば、涙の粒もこぼれるだろう。そこに生じる深紅の石こそ賢者の石。涙の川は生命の水」
杏雪はぽつりと呟いた。父の研究資料の中にあった、天然痘とはあまり関係がないように思える一文。それが奇妙で頭に引っかかっていた。
「それは…?」
昊天が尋ねる。
「父の研究資料の中にあった一文です。どうやら錬金術、外の国の錬丹術のことらしいのですが。父が研究していた天然痘の疫苗の研究には関係がない気がして、記憶に残っておりました」
父が研究に手詰まりだと感じて、不老不死の霊薬、丹の研究に手を出した可能性もあるが…。父は真剣に天然痘の治療に向き合っていた。次は牛痘を調べようと言っていた矢先に病になって帰らぬ人となった。
「柳 智衡は優秀な医官だったと聞く。遺体を傷つけた罪で宮廷から追放されたが、優秀だった智衡が無意味なものを残すとは思えないんだ」
昊天は先程杏雪が呟いた金と銀が結びつけば…という一文が気になるようだ。
「父が言うには、遺体を傷つけたわけではなく、解剖していたそうです。父は外の国で外科手術なるものを学んだと」
父は好奇心がなにより優先されるような性格で、医学の発展のためならば罪人の遺体を切り刻む──解剖しても良いと思っていた。倫理観が少しずれた人物だった。それでも杏雪にとっては最愛の父だった。
「刀圭の一族の医官に、人間蠱毒について聞いてみよう。何かわかるかもしれない」
昊天の言葉に杏雪は頷いた。父が追放されたことから、刀圭の一族には近寄りがたかった。父方の一族であるため、杏雪が群主として龍帝に引き取られなければ、きっと刀圭の一族に引き取られただろう。
刀圭の一族の中で杏雪が会ったことがあるのは柳太医丞だけだ。前は、後宮の立ち入りに龍帝の許可が必要だったが、今、その龍帝はいない。昊天の許可さえ貰えれば、面会は可能だ。
「父方の親戚とは一切、関わりがありませんでしたが、柳太医丞なら一度会ったことがあります。彼も刀圭の一族なので、知識があるかもしれません」
***
忙しい柳太医丞との面会を取り付けるには円環の龍の印があればすぐだった。通常は龍帝を示すその印は龍帝亡き今は皇太子が使用を許されていた。
面会の場所は、前と同じく医局の一室。しかし、今回は昊天が同席した。太医丞の他に皇太子までもをもてなさなくてはならなくなった、宦官医たちの慌てようは少し可哀想なくらいだった。
柳太医丞は皇太子を前にしても臆せず、堂々とした態度だった。
「金と銀を結び合わせれば、涙の粒もこぼれるだろう。そこに生じる深紅の石こそ賢者の石。涙の川は生命の水…謎かけか何かか?」
杏雪は自身に宿る人間蠱毒、そして父が残した文について刀圭の一族は何か知らないかと尋ねたが柳太医丞は首を捻りながらそう答えた。
「人間蠱毒の解毒方法については何か知らないのか?」
昊天が尋ねると、柳太医丞は首を振った。
「確かに南方の呪術、蠱毒が刀圭の一族により人間蠱毒に変化したのは知っています。しかし、人間蠱毒に今まで成功例はなかった。だから、解毒方法も解明されていないのです」
そして人間蠱毒に関する書物は火災によって消失しており、口伝でしか柳太医丞も知らなかったそうだ。雅蘭が知ったのは口伝で伝わったあやふやな人間蠱毒だったのだろう。本来、肉塊の奇形として生まれるはずだった杏雪は命ある人間として生まれた。
蠱毒が人間の形をしていることが、柳太医丞にも信じられないらしい。杏雪も人間蠱毒の失敗例として生まれた。だからこそ人でありながら、人を殺す毒を持っている。柳太医丞は、なぜ杏雪の毒で杏雪自身が死んでいないのか不思議がっていた。
「毒を呪術として解釈するなら、呪い返しが有効かもしれないが…。呪いをかけた母君がもう死んでいるなら返す先も無いな…」
柳太医丞は困ったように唸った。杏雪は柳太医丞の考察を自分なりに考えていた。人を殺す毒を持った人間が自分の毒では死なない。それすなわち、杏雪は人間では無いということの証左のように感じられてならなかった。
知れば知るほど、杏雪は普通の女の子から遠ざかっていく。それが悲しく、身に纏った蟠桃の香が似合わない気がした。
「父が残した錬丹のような一文は、やはりただの謎かけなのでしょうか」
杏雪は自分の声が思ったより残念そうな響きが強いことに気づいた。自分でも父が杏雪のために答えを用意してくれているはずと期待してしまったのかもしれない。父はいつも杏雪の拙い疑問に答えてくれたから。
「そもそも金と銀は結合できない。これは何かの比喩だと考えた方がいい」
柳太医丞は謎かけの一文を紐解き始めた。
「金色のものと、銀色のもの…とか。太陽と月みたいにわかりやすければいいんだが」
昊天は金色を太陽の光、銀色を月の光の例えでは無いかと考えたようだ。しかし、太陽は昼、月は夜と、結び合わせることはできない。太陽は昼に輝き、月は夜に輝く。同時には存在しない。
「あの…発言してもよろしいでしょうか」
今まで静かに話を聞いていた花琳がおずおずと手を挙げた。
「夕方なら、まだ日は沈んで無いけど白い月が浮かんでることもありますよね」
結び合わせる──ということは夕方の時間帯を指していたのではないだろうか。隣にいた虞淵も花琳の話に頷きながら、発言の許可を求めた。柳太医丞はこの謎かけを解くためなら、どんな些細なひらめきも聞きたいようだったし、昊天も花琳たちが身分が低いから話を聞くに値しないとは、考えていないようで許可はすぐに降りた。
「日蝕でも太陽と月が同時に見れるワ」
呪術的な要素が絡むのだとしたら、賢者の石は日蝕の時間に作らなければならなかったりするのだろうか。
「その次の、涙の粒もこぼれるだろう、というのも気になる。涙というからには何かしらの意味があるはずだ」
柳太医丞がそう言うと、花琳がこう呟いた。
「涙って海水みたいにしょっぱいですよね」
花琳の出身の對国は都が海に面していた。神陽は内陸にある都なので、食卓には川魚ばかりで海産物は干物ばかりだった。花琳にとって海は身近なものなのかもしれない。
「涙…舐めたことなかったワ…」
虞淵が少し呆れながらも、花琳の発想には感服しているようだった。杏雪は自分の体液は毒だったので涙も舐めたことはなかったし、海も縁遠い人生だった。そうか、涙はしょっぱくて海水に似ているのか。
「涙…海水…いや、そうか! 塩!」
柳太医丞が閃いたように叫んだ。
「塩…塩化曹達」




