三十話 天誅
夷狄討伐から帰った神華軍は都、神陽を凱旋した。その様子を杏雪は見ることはできなかったが、後宮にも祝賀の雰囲気が漂っていた。爆竹の鳴る音が辺りからよく響いた。
外廷で祝賀式が開かれ、董将軍と昊天はそこで龍帝に謁見し、皇太子の指名も行われたそうだ。皇后は邪魔しようとしたようだが、出産間近という体のせいで安静を余儀なくされている。
皇后が動き出すのは無事に出産を終えてからだろう。皇太子の指名を撤回させるか、何か汚名を着せて廃太子にする方向だろう。
杏雪は後宮でいつも通り診療所を運営するしかなかった。壁を隔てた向こう側に昊天がいるのに、会えないもどかしさを感じながら。
***
金の龍たちが昊天を見下ろしていた。祝賀式では見栄えのために鎧をつけたまま参加したが、龍帝への謁見には四爪の龍の青の袍に身を包んだ。
玉座には虚な目をした龍帝が座っている。祝賀式の最中は御簾を下げて、芳が何とか誤魔化したようだが、龍帝が心身喪失状態にあることは明らかだった。
ぶつぶつと何か呟いていて、よく耳をすませば「やー…らん、やーらん」と呟いている。それを聞いた昊天はぞっとした。龍帝の異常性を目の当たりにしたのはこれが初めてではないが、今までで一番酷い状態だった。
執政のほとんどを左丞相に任せ、今回の立太子を急いでいるのも龍帝の裏にいる芳がこのままではまずいと考え、昊天を皇太子にし政務の代理をしてもらうためだろう。芳が裏で手を引き、説得したに違いない。
こんな状態の龍帝にまともな判断ができるとは思えない。言葉を引き出すのは簡単だっただろう。
「龍帝陛下のこの状態はなんだ、芳。龍帝陛下に何があった」
そばに控える芳に昊天は少し責めるように尋ねた。たしかに龍帝は異常な男であったが、こんな迷子の子供のように弱々しくなることなど信じられなかった。
「すべては王母娘娘廟にございます。…私はもうそこにあるものを見たくありません。確かめるのであれば、どうかお一人で…」
芳が王母娘娘廟と言った時、茫然としていた龍帝が「やーらん」と玉座から立ち上がった。芳が「龍帝陛下、どうか気を確かに…」と玉座に座らせる。
王母娘娘廟の中にある仙女の姿絵は、元公主の雅蘭に似ているというのは有名な話だ。この話を信じないのはきっと後宮では皇后くらいしかいない。
冷宮から出てから初めて王母娘娘廟に行った時のことを覚えている。姿絵の中に母がいると思った。しかし、それは母に似せて描いたのではなく、龍帝が姿絵に似た女を後宮に集めたから、寵愛を受ける女たちはどこかしら姿絵の女に似ていた。
雨が降る中、竹に油紙を貼り付けた傘を侍従たちに差してもらって昊天は王母娘娘廟へ向かった。薄暗い廟の中に火を灯し、姿絵を浮かび上がらせる。
姿絵の祭壇の前に供えられるように桐箱が置いてあった。前に見た時にはなかったものだ。昊天は侍従たちには外に出ているように言いつけて、桐箱を開けた。芳の言っていたのはこれのことだろう。
中には披帛が入っていたが、不自然な膨らみがあった。披帛を捲ると、昊天は息を呑んだ。
「胎児…?」
母の腹に包まるように手足をぎゅっと丸めて胎児はそこにいた。しかし、通常の胎児より頭が肥大化しているような気がする。胎児の身体の大きさと成人を比べるものではないが、明らかに胎児の頭は巨大で体が小さかった。
「これは、奇形か…」
昊天はそっと胎児を撫でた。恐怖というよりも憐れみが優った。なぜ、奇形の胎児が王母娘娘廟に捧げられるように置かれているのか。昊天は姿絵を捲った。
姿絵の後ろの壁には空洞がある。これは子供のときに偶然見つけてしまったものだ。中の空洞には骨壷がある。これが誰のものか、見つけた当時はわからなかったが今ならわかる。雅蘭のものだ。
そして母親の元に帰るように置かれた胎児の木乃伊。これは雅蘭に関係する人物の遺体なのだろう。
昊天は姿絵を元に戻すと、桐箱から披帛だけを持ち出した。謁見の間に戻ると、芳は昊天の手に握られた披帛に息を呑んだ。
「何を勝手に持ち出しているのですか! 皇太子殿下といえど許されたことでは…」
しかし、芳が必死に隠そうとするも龍帝は昊天が披帛を持ち出したことに気づいた。
「やー…らん!」
龍帝は玉座から崩れ落ちるように転がり落ちる。芳が駆け寄り起こそうとしたが、龍帝はその手を払い除けた。獣のように四本足で駆けるように龍帝は昊天に近づいた。
「やぁ、らん!」
その瞳に昊天は写っていなかった。外は暗雲に包まれ、雷鳴が轟き、雨が強く打ち付けていた。露台には勝利を祝して青色の旗が飾られている。
昊天は床に這うようにしている龍帝を一瞥すると、露台に出た。雨が打ち付けて、披帛も水を吸う。
「龍帝陛下、私は常々、あなたのことは天も麒麟もお認めにならないと思っていたのですよ」
昊天は話しかけるが、龍帝は人の言葉を返さなかった。ただ鳴き声のように「やーらん」と呟くばかりで、その目線の先には雨に濡れる披帛があった。
「私はあなたのことを父親だと思ったことはありません」
そう言えば少しは自分や、母に気を向けてくれるかと思ったが、龍帝が発した言葉は「やーらん」だった。昊天は幼い自分の泣き声が雨音に混ざって消えていくのを感じた。親子の情など最初からなかった。小さな昊天の期待は打ち砕かれた。
「清廉潔白でいようと思った。それが正しいことだと思っていたから。しかし、私は清濁合わせ飲むことも必要だと、董将軍から教わりました」
昊天は雨に打たれながら、披帛を握った手を掲げる。披帛は雨水を吸ってすっかり重くなっていた。
「やーらん!」
龍帝が叫ぶ。昊天のしようとしていることに気づいたのだろう。それでも、叫ぶのが「やめろ」でもなく、昊天の名前でもなく、雅蘭の名前であることがどうしようもなかった。
しかし、龍帝の虚な瞳に一瞬だけ光が宿ったような気がした。そして龍帝ははじめて人の言葉を喋った。
「やはり血だ。息子よ、お前と私は同じだ。一人の女のために狂う」
昊天はそんな言葉には惑わされないというように龍帝を睨みつけた。そして雨に濡れて重くなった披帛を露台の外に投げ捨てた。龍帝はその後を追うように露台から身を乗り出して、片方の手が披帛を掴む。その際に露台に飾られていた青い旗の旗竿をもう片方の手が掴んだ。
天誅ともいうべきか。旗竿を掴んだ瞬間、頭上に稲妻が落ちた。金属の旗竿は避雷針のように雷を吸い込み、感電死した龍帝は披帛を掴んだまま露台の下に落下した。
「龍帝陛下!」
芳がありえないというように叫ぶ。昊天は露台の下を見下ろした。地面には龍帝が倒れていた。ずっとそのまま起き上がることはなかった。死んでも龍帝は披帛を固く握りしめたままだった。
「占いも呪いも信じていなかったが。やはり天誅はあるものだな」
昊天は懐から家畜の結石、ジャダ石を取り出した。この石は嵐を呼ぶと伝えられている。董将軍お抱の易者に天候を占ってもらった。嵐になる日に合わせて都に着くよう調整した。そして避雷針になるように露台に旗を設置させた。まさか、本当に雷が降るとは。ジャダ石の効果だろうか。
「確かにあなたの言うとおり、一人の女のために狂っていますよ」
最後に分かり合えたのは親子としてではなくて、一人の男としてだったのかもしれない。




